真城ゆかりの人物


詩人・児童文学者 織田 秀雄(おだ ひでお)
 
1908年(明治41年)~1942(昭和17年)34歳で没
 北上川上流の啄木、中流の賢治、下流の秀雄
 評された。



多彩な文学活動に情熱
織田秀雄(以下「秀雄」という)は、現在の奥州市胆沢区小山の笹森の農家の長男として生まれた。父の仕事の関係で、1915年(大正4年)金ケ崎尋常高等小学校に入学し、その後、一家は小山村に戻り、小山村尋常高等小学校3年に編入。成績は優秀であったようだ。文学に目覚めたのは6年生からのようで、その後、高等科(今の中学校)を経て1923年(大正12年)水沢農学校(現在の水沢農業高校)に進学しました。

1. 真城との関わり 
  1927年(昭和2年)4月~1930年(昭和5年)1月
農学校を卒業した秀雄は姉体尋常高等小学校(現姉体小学校)を経て、1927年(昭和2年)真城尋常高等小学校(現真城小学校)の訓導(正教員、19歳)になりました。教育に対する姿勢は、常に子供たちの考えを尊重する先生で、「読み方」、「つづり方(作文)」の指導は秀雄ならではの才能が発揮されたようです。授業以外の活動では、真城尋常高等小学校で野球部の活動にも関わった。その当時の写真が残っています。また、真城尋常高等小学校の校歌(1928年、昭和3年6月)を作詞したのも秀雄でした。

    
真城尋常高等小学校の野球部の子ども達と(後列右から2人目)

2. 秀雄の作品
【作品概数】
   小説 16編
  童話 4編
  童謡 29編
  誌 14編
  民話収集 27編
  ヤロコ詩収集 30編
  民謡収集 麦つき節110編
  その他論説・エッセイ等


【代表作品】
百姓人形
 百姓人形 笑い出せ アハハ アハハと笑い出せ
 僕がつくった 木の人形 だまっていたとて何になる
 すすけた棚で おどり出せ すすけた顔でさけび出せ
 朝から晩まで だまってて すすけているのは馬鹿らしい
 百姓人形 歩き出せ 百姓人形 暴れ出せ


通信簿
 甲の上
 親に孝行 甲の上
 まじめに働け 甲の上
 主人に使えろ 甲の上
 先生の言うことすぐ書けば
 うそでもなんでも 甲の上
 おいらをだます通信簿
 こんなものには用がない


テビラコ
 テビラコ
 テビラコ
 アンチコト アルカ
 メッパズキ シナイデ
 ナニミデル

 オラダ ハ
 ユベ ナ
 エッソメシ タベタ
 エッソメシ タベタ


一年生
 はだかで足ぶみ
 どんどんどん
 木などいらない
 どんどんどん
 弱虫 泣き虫
 威張り虫
 穴掘って うめろ
 うめたらその上
 どんどんどん
 かたくなるまで

 どんどんどん


3. 秀雄のその後
教員を辞めた後、1930年(昭和5年)に左翼運動に参加したとして治安維持法違反で逮捕され、2年間収監された。釈放後、仙台、東京で仕事をしながら主に小説を執筆。結婚や子どもの死後、親類のいる水沢に身を寄せたが、肺結核のため34歳という若い生涯を閉じました。

4. 生誕100年・織田秀雄を顕彰する会が記念碑を建立
2014年(平成26年)は、織田秀雄の生誕100年に当たり、「生誕100年・織田秀雄を顕彰する会」が結成され、奥州市を中心に秀雄の業績を広め、後世に伝えようと顕彰碑を建てる運動が始まり、出生地近くの奥州市胆沢区上笹森(上笹森交流館敷地内)に記念顕彰碑が建立されています。

   
建立された生誕100年記念顕彰碑(百人人形が刻印されている)


問い合わせ先 
織田秀雄を顕彰する会事務局長 宍戸 春雄 電話0197-23-6726


旧・校歌

作詞 織田 秀雄  作曲 武田 忠一郎

1. 平和に明けゆく 日本の
  
(※歌い出し原文「歴史輝く 日の本の」であったが
    戦後前記のとおり直して歌われた)

  山の愛児と 生まれたり
  学びの友よ もろともに
  心の駒に 鞭打たん
  ああ 我が真城小学校
  ああ 我が真城小学校

2. 山うるわしく 水清く
  朝露にこむる 田園に
  見よ羽ばたきの 雄々しさを
  未来は平和の 戦士なり
  ああ 我が真城小学校
  ああ 我が真城小学校

3. 生い立ちこむる 若緑
  ここは 岩手の光る村
  胸に高鳴る 血汐には
  赤誠尽きぬ 叫びあり
  ああ 我が真城小学校
  ああ 我が真城小学校


ただ、この当時は戦前であり、治安維持法というもので思想の取り締まりが厳しく、自分の考えていることを自由に表現できない時代であったことから、共産主義者として思想犯を専門に取り締まる警察に連行され、その後この校歌を歌うことが禁じられ、幻の校歌となってしまったのです。戦後の学制改革により小学校に改名され、この学校には校歌がなくさびしい、ということで戦前の尋常高等小学校で歌われた、一番の歌い出しの歌詞を変え、二番の歌詞は時代に合わない、ということで省いて歌われ始めましたが、校歌として制定されることはなく、2,3年後には歌われることもなくなったようで、1958年(昭和33年)になって現在の校歌が制定されました。