HOMEへ戻る 「イタオペ」以外目次へ

「始めの言葉」続きです

 ネットの世界に入って来て、「オペラ御殿」のミン吉さんを始め、若いのにかなりマニアックに「オペラ」を語る人達がいるのに出会いました。オペラに関しては自分より上手(うわて)な人にはなかなか出会わなかったので、そういう人達がこの世に存在する事自体を大変嬉しく思い、なんといっても、自分もそれほどのキチ**ではない、と思えるのがそれ以上に嬉しい事でした。
掲示板への書き込みなどをするうち、英語で外国のレコード会社に(海賊的なライブ録音とかを)注文するような人達に対抗心を持っても仕方がない、自分らしいネタで行こう、という思いが自分の中で固まって来たのです。そこで「田舎に住んでいる」「余りマニアックでない」オペラファンとしてのスタンスを「NHKだけでもオペラはこんなに楽しめる」という点に置いたHPを立ち上げようと思ったわけです。

 大学に入ってから合唱を始め、その後歌曲や宗教曲、そしてオペラとだんだん守備範囲を広げていき、FMエアチェックなどもするようになりました。最初に嵌ったのは、服部先生、皆川先生の「バロック音楽の楽しみ」でしたが、これは学生時代だけで熱が冷めました。ここのところ特にお世話になっているのは、黒田恭一先生の「20世紀の名演奏」、一番長続きしているのは大学3、4年の頃から、四半世紀に渡って録音し続けている、音楽コンクール、ニューイヤーオペラコンサート、午後のリサイタル以来のリサイタル番組といった日本人歌手物、ということになります。

 「イタオペ」のほかに、私がビデオデッキを買うきっかけになった81年9月のスカラ座初来日をはじめとする外来オペラや、80年代に放送されていた国内オペラ、そして上記の日本人歌手による録音のページも加えたいと思います。
日本人歌手物の方はどれも、私の趣味の選曲で録音していますので、男声が主で女声によるものはごく一部しかないことをあらかじめご承知おきください。また、歌手の名前でとりあえずひらがなで記入している部分がありますし、他に間違いもあるかと思います。
ご存知の方は、メールにて教えていただければ幸いです。
尚、掲載しているリストは、「私が持っている録音」であって、放送された曲目の資料というわけではありませんので、念の為申し添えます。

 もう一つ、お断りしておきたい事があります。普通のCD紹介のHPでは、基本的に読んだ人が手に入れることが出来るもの(難易はともかく)を取り上げているようです。「CD紹介」のページとしては当たり前のことですね。それに対して、このページで紹介している演奏は「過去において放送されたもの」であって、今後手に入る可能性はごく僅かなものばかりです。「HPで紹介する演奏」としては反則かもしれませんが、こういうHPがあっても良いのでは、と思い、徹底して「過去において放送されたもの」にこだわってみたいと思います。

 上のように書いていたのですが、2002年8月にCDレコーダーを入手してカセット音源のCD化を始めて以来、半年余りの間に40枚ほど出来上がり、その後もボチボチ制作しています。また、このCDをなんとか聴いてみたい、というお問い合わせも何件かいただきました。
ということで、制作したCDに関しての私の基本的な考えをまとめてみました。

 
Private CD について (2003.5.11)
 昨今、バソコンやCDレコーダーによる違法コピーのためにCDが売れなくなっている、とレコード会社が主張し、それに対抗するコピーコントロールCD(音質面など極めて問題のある仕様と言われている)が登場するなど、著作(隣接)権を巡る問題は一般の人にも認知されて来ていると思います。また、放送音源を発掘して来たようなライブ盤(CD−Rと銘打っているものさえある)がCD店で堂々と売られているのも周知の通りです。
そういう中で、私が制作し、このHPに掲載しているCDに使っている音源は(ごく一部のLP音源を除いて)全てFMエアチェックによるアナログ音源であり、全国的に見ても珍しいものでは数十人、比較的知られたものでも数百人しか持っていないと思われる音源から起こしたものですから、金さえ出せはどこででも買えるデジタル新録音CDからのコピーとは全然意味が違うと思います。
 そうは言っても演奏者の許諾等はいただいておりませんので、当然ですが販売すれば著作(隣接)権法違反になります。しかし、同好の士(少なくともネット上の友人になった同士)の間で交換する分にはかまわないのではないか、むしろ声楽、伴奏法を勉強している人や音源を使わせていただいた歌手の方には差し上げて聴いていただきたい、と考えています。興味のある方は遠慮なくお問い合わせ下さい(先ずはネット上の友人になってから、です)。

Private CD Index

 

このページでのアリアの題名表記について
一般的なオペラファンでも当然知っているべき(と私が思っている)有名曲については、オペラの題名、歌う役名は省略して表記している場合があります。

 


イタリアオペラへの招へい (第1〜3回)

                                   福原信夫

 「今年の秋には、日本とイタリア両国政府の後援のもとに、待望のイタリア歌劇団を招いて、日本全国に音楽と演劇と舞踊の三大芸術を総合した豪華版をお目にかけたいと存じます。」
 それは今から30数年前の昭和31年の正月元旦に、NHK会長の年頭の辞として放送された一節であるが、これはNHKの放送開始30周年記念事業として、また日伊文化協定に基づく芸術交流の一環として計画されたものであった。当時はまだ今日のようにオペラが一般に普及されておらず、全曲レコードも年間数組を数えるだけであったし、レコード会社としても解説書や対訳の制作などで重荷とされていた時代であっただけに、これは全く破天荒な企画であった。

 この計画がNHKとイタリア側でひそかにすすめられていたのは、その前年からのことで、具体的にはローマ国立歌劇場支配人グイド・サンパオリ氏、イタリア文化省の推薦による歌劇団組織者アントニオ・ショーヤット氏とNHKの故前田義徳会長(当時報道局長)の間で進められていた。
 前田氏は戦前朝日新聞者特派員としてローマに駐在していただけに、イタリア・オペラに限りない愛着の念を抱いていたし、ショーヤット氏は元ユーゴスラヴィアのウィーン駐在文化参事官であり、当時ウィーン国立歌劇場のプリマ・ドンナであったソプラノのアルダ・ノニと結婚し、戦後は夫人の故国イタリアに帰化したが、長くユーゴスラヴィアのリューブリアーナやザグレブのクロアチア国民歌劇場と、ナポリの歌劇場などの交感上演に大きな実績のあった歌劇団組織者であった。

 またこの計画は日伊文化協定の一環として政府レベルの事業であったため、当時の在ローマ大使館付金倉書記官の陰での奔走も大きかった。その結果重光外務大臣から在イタリア特命全権大使、石田健氏あてに正式に指示があったのは昭和30年8月4日であった。

 かくて実質交渉に入ったのであるが、NHK側の交渉に当たったのは当時のヨーロッパ放送総局長牧定忠氏で、ショーヤット氏との間に具体的とりきめが行われた。
なにしろこうした計画は戦後最初のことで、当時は外貨の制限などもあり、これら関係者の苦労の並々ならぬものがあったが、曲目案が初めてまとまった12月26日の書簡によれば、イタリア側から示された原案は「アイーダ」、「フィガロの結婚」、「トスカ」、「ファルスタッフ」または「オテロ」の4曲で、主なる出演者案はソプラノのテバルディ、ステルラ、メゾ・ソプラノはバルビエーリ、シミオナート、テノールはデル・モナコ、ディ・ステファノ、タリアヴィーニ、バリトンはゴッビ、タッディ、バスはターヨ、ロッシ=レメーニ、演出:ピッチナート、モレスコ、指揮:デ・ファブリティース、カプアーナ、サンティーニという当時イタリアきってのベスト・メンバーであった。

 2月になるとイタリア側の準備は着々と進み、9月25日到着の予定が知らされて来たし、イタリア総理府の助成金の通達も届いた。

 ところが困ったことには、当時の目玉であったデル・モナコが出演不能になったことである。デル・モナコは13歳の彼女と駆け落ちしてスイスへ行き、スカラ座を始め、ローマ、ナポリの歌劇場の出演契約に違反したので、イタリアに帰る旅券をとりあげられるという事態に進展していた。また来日を希望していたゴッビも、同じ時期にサンフランシスコとボストンと契約済みであったことが判明した。

 あれやこれやで牧氏がショーヤット氏と交渉の結果、「オテロ」は次回へまわし、「アイーダ」のタイトル・ロールに当時イタリアで格の高かったウンベルト・ボルソに決定したが、その間イタリア新聞「パエーゼ・セーラ」の助成金に対する攻撃などもあり、現地の関係者の苦労も並大抵ではなかった。

 一方、日本側の計画も着々と進んだ。当時ラジオ関係者では舞台製作に全く経験がなかったし、昭和28年2月に正式にスタートしたばかりのテレビ・スタッフも全く手がまわりかねたので、第1回は外部からの経験者に委嘱することになった。今思い出してみれば、当時ご助力をねがった方々の中に当時最高のスタッフの方々のお名前を見出すことが出来る。栗山昌良(演出助手)、妹尾河童、緒方規久子(美術)、石井尚郎(照明)、長沼広光、佐々木忠次、湯藤光生、稲垣勝(舞台監督ならびに助手)、島田広(振付)などそうそうたる諸氏の協力のもとに行われているし、合唱指揮は森正、補助指揮は外山雄三、岩城宏之氏等であった。
局側からスタッフとして参加したのは、語学の達者な上波渡君唯ひとりであったことは、いかにこれらの方々の努力によって準備万端が整えられたかを知る事が出来る。これらの方々の大部分は、後に「スタッフ・クラブ」を結成して、斯界に大きな足跡を残されている。

 そのとき前田局長はひそかに小生を招き、将来は内部スタッフで実行出来るような体制の準備を命じられた。今もって考えれば誠に先見の明とも言うべきことで、当時テレビ音楽班長であった筆者は、スタッフを各分野にわたりアシスタントとしてひそかに配置し、爾後毎回交代制をとってスタッフの育成につとめたことは、今だから言えることかもしれない。

 管弦楽はNHK交響楽団、合唱は東京放送合唱団、二期会合唱団、バレエは服部・島田バレエ団の総力をあげての出演で、特にイタリア語による暗譜は合唱団にとって仲々大変なことであった。

 こうして準備は次第に整えられてきたが、なにしろ当時はプロペラ機の時代で、南回りだけであったし、まだ見知らぬ極東への旅行への危惧などで人選も直前まで難航した。

 それでも当時最盛期と言われていたシミオナートや、バリトンのグェルフィ、軽妙なスーブレットとして定評の高かったアルダ・ノニ、それに当時ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に進出したばかりの美貌のプリマ・ドンナ、アントニエッタ・ステッラ、今なおカラヤンの指揮のもとで歌っているバリトンのジュゼッペ・タッディなどという豪華陣(確かに今考えてみても豪華メンバーであった)が決定した。

 かくてやっと契約締結に漕ぎ付け、概要を5月31日に発表し、8月16日に公演日程、曲目、出演者の最終決定などを発表した。

 ちなみに入場料は2,800円ないし800円であったから、貨幣価値の変動があるにしても比較的低額であったことがわかる。

 

第1回公演(昭和31年)
 9月29日、東京宝塚劇場における「アイーダ」の豪壮華麗な舞台は、イタリア・オペラの開幕にふさわしいものであったし、同時にわが国におけるオペラ時代を迎える第一歩でもあった。

 はじめて聴く本場の第一級の歌手たちの声の饗宴には全く圧倒され、特に「凱旋の場」でアモナスロを歌ったグエルフィの朗々たる「声」は驚嘆の的となった。

 東京宝塚劇場における公演は、当時の宝塚少女歌劇公演のため2夜だけしか使用出来ず、あとの公演は現在姿を消した産経ホールに移った。

 指揮者のヴィットリオ・グイは当時モーツァルト上演では定評のあるグラインドボーン音楽祭の音楽監督をつとめていただけあって、その得意とする「フィガロの結婚」の楽しさ、特にシミオナートの演じたケルビーノのすばらしい演技と歌唱は話題をさらったが、まだオペラ熱の低かった当時だけあって、今日では「夢の配役」とでも言うべきタッディの「ファルスタッフ」が、中ホールなのに僅か6割の入場に止まったのは隔世の感がある。

イタリア・オペラの中でモーツァルトが1曲選ばれたのは、グイの参加条件とともに、モーツァルト生誕200年記念公演でもあった。

 

第2回公演(昭和34年)
 イタリア・オペラ熱が急上昇したのはこの第2回からで、「黄金のトランペット」と言われたデル・モナコと「オペラ団十郎」と異名をとったティト・ゴッビによるヴェルディの「オテロ」が初日を飾ったことであった。この上演は最近再放送されたときでも、その迫真的な熱演に圧倒されるのだが、今日にして思えばこの2人の名歌手の最高の舞台を飾るものであった。

 またリリカルなタリアヴィーニの美しい声をふんだんに聴かせる「愛の妙薬」が、笑いとともに、人情の美しさにひそやかな涙を催させたし、デル・モナコ、シミオナートという画期的な組み合わせによる「カルメン」と、トゥッチの華麗な「椿姫」は今も瞼に残る。

 これは前回果たし得なかった出る・モナコの出演とともに、スタンダードで楽しい曲をというテレビ聴取者の希望を反映したプログラム編成であったことにもよるのだが、全8回を数えるイタリア・オペラのピークであったとも言えよう。

(「カルメン」はイタリア語で歌われたが、それはリコルディのイタリア語版でなく、デ・ラウチェレス訳のパリ・シューダン版のイタリア語で歌われた)

 

第3回公演(昭和36年)
 前回の「オテロ」ではオペラ・ファンを魅了したが、第3回はさらに白熱的な「オペラの饗宴」と言うにふさわしかった。それは大プリマ・ドンナ、レナータ・テバルディを迎えてデル・モナコと「アンドレア・シェニエ」が上演され、テバルディの十八番とも言える「トスカ」の豪華な舞台が繰りひろげられたからである。今にして思えば、この公演がこの2人の良き時代の最後を飾った名演であったことと思われる。

 またかねて待望していた伝統的なイタリアの名演出家ピッチナートを迎えたことも注目されるし、デル・モナコの当たり芸とも言える「道化師」の圧倒的な名演は伝説的にまでなっている。

 シミオナートの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、アルド・プロッティの「リゴレット」も忘れることの出来ない名演であった。

 

以上は、1986年に音楽之友社から発行されたMOOK「オペラのすべて86」に掲載されたものを、一部省略して掲載しています。「イタリアオペラへの招へい」という題は一寸おかしいと思いますが、原文のままです。音楽之友社、福原信夫氏の関係者に無断で掲載しておりますので、著作権的には問題があります。関係筋からのご指摘によっては掲載を中止する場合もあると思いますので、ご了承下さい。

 

ページトップへ戻る                 HOMEへ戻る