「石森萬画館」第七十四回訪問記

平成二十五年一月一日(火)

 萬画館再開後初めての正月。天気も荒れていないので九年振りの元日石巻行を決行する。
 鉄道利用。九時十七分水沢発。大船渡線のポケモン列車にちなんで、一回目の乗り換え駅・一ノ関のホームはポケモンで飾られている。改札の脇には大きな人形が置かれ、行き先の表示板や柱にもポケモンが華やかにあしらわれている。
 二度目の乗り換え駅・小牛田も晴れている。敢えて何も飲食をせずに石巻行きの列車が来るのを待つ。
 冬の鉄道は暖房と適度な揺れで実に心地よい。居眠りしている間に十一時四十六分、石巻着。晴天で風も強くない石巻駅前、少なからぬ人々が行き交う。駅舎の正面入り口の脇、003像の背後に大地震の記念板が貼られて、地震の諸情報や浸水位置を示している。
 駅正面からいつもどおり南下して左折、立町通りに入ると途端に人も自動車も少なくなる。まだ開いている店も少ないシャッター通り。そのまま東進し、観慶丸の角も右折せずに直進。川岸に突き当たってから右折する。アイトピア通りや八幡家前は通らない。尚、この日は復興マルシェも休み。
 正午過ぎ、中瀬に入る。萬画館北側の広場は嘗て串田アキラのライブや海斗ショーが行われた場所。今は草ぼうぼうで手入れはされていないようだ。
 北側から入館する。缶飲料自販機の前で休憩していたSEI氏と合流する。ここ数年、登米市のふるさと記念館や、地震の後は石巻市内でも何度も会っているが、萬画館の中での対面は初対面の時以来、実に五年振り。日和山で初日の出を拝んで来たという氏。この後、氏と行動を共にする。写真撮影の時刻も頼りになるべく正確を期すが、この後、何度も館を出入りし、また館内各階を昇降しているので、事柄の記述が実際と前後しているかも知れない。
 大森課長に会う。先日、ラジオ関西「青春ラジメニア」で萬画館取材の報告があった事を告げ、またフェローズカード#591を提示する。同番組では慰問した歌手が現地の様子を話す等、マンガランド被災について度々取り上げて来た。
 一階の受付で年間パスポート更新の手続き。正確には、新たに入会申込書を記入しての再入会のようである。この書類への記入が筆者の書き初め。アテンダントは旧パスポートを回収しようとするが、筆者は「今まで使って来て愛着があるから」と返却を求め、アテンダントは旧の有効期限欄を二本線で抹消する。仮パスポートを受け取り、後刻返却して新パスポートを受け取る。会員番号も新たに採番されている。パスポート特典を説明しようとするアテンダントに対して「私の方が詳しいよ」と言う。
 筆者は深夜に年越し蕎麦そばを平らげてから何も食していないので、まずBLUE ZONEに向かう。店員達に筆者を紹介するSEI氏。テーブルは満席なれば窓際に席を取る。例によってBLACKコーヒーと、正月限定くじらカレー。筆者の注文の後、程なくしてくじらカレーは当日品切れ。暫し歓談。
 二階に移動して企画を見る、この日は落ち着いてじっくりと。マンガランド構想は今から二十年近く前に、章太郎生前に本人の協力の下に始まっている。決して、石巻市が中田町から章太郎を盗んだのではない。章太郎の死は「帝國」を始めたばかりの頃の筆者にも大きな衝撃で、当時の新聞記事にも石巻市民の哀悼の声が載せられている。筆者とて全ての行事に参加しているわけではないので、今回初めて知った事柄も沢山ある。いくつのビデオセットがそれぞれ映像を流しており、そのうちの一つはトヨタCMである。
 地震発生時のラジオ石巻の様子の音声、五分ほどが流されている。番組の途中で急を告げるアナウンサーの声に切り替わり、揺れが収まらないだの、建物の倒壊が見えるだのと恐ろしい事を喋る。同局は災害の様子を伝えつつ、十九時半頃に電源切れで放送が途絶したと言う。
 井上きみどりの、萬画館被災時の様子を描いた漫画が展示されている。主人公は大森課長。
 一階に下りて墨汁一滴を見てみるが特に欲しい物は無い。十三時の回の海斗握手&撮影会開催中。
 外に出る。館の南側の公園で凧あげ大会開催中。小学生達が、萬画館提供の凧を揚げて遊んでいる。適度な風があり、高く揚がっている。実に「ドラえもん」に出て来そうな正月の風景。
 相変わらず無残な姿の自由の女神像。一昨年七月の写真と比べてみると、裾の部分が大分取れてしまっている。
 作田嶋神社の仮社殿コンテナや、破損した狐石像には真新しい御幣が付けられている。旧ハリストス正教会堂は地震の前から「旧」の字のとおり、宗教機能を失った遺跡に過ぎないが、作田嶋神社の社殿は木っ端微塵に砕けてもまだ現役の神社なのである。庚申碑や金毘羅大権現のような、あまり大きくない石碑は倒れたまま。
 水たまりで鴨の群れが遊んでいる。別に脅かすつもりはないが、我々が接近しても逃げない。
 十四時頃に萬画館に戻ると、好評につき十四時の回が追加された餅つき、振る舞いが終わるところ。西條社長以下現在の幹部や、板橋前社長、旧構想の重鎮・和田社長に会う。我々も促されて残り少ない餅を取り、食す。
 萬画館にも津波の高さの表示がある。一階の天井近い。しかし二階以上は無事だったのだ。
 また館内に入り、BLUE ZONEではスパゲティを食し、また展示や店を見る。
 十五時頃また外に出て今度は橋を渡って西岸の道を北上し、交番や信金の前を通って住吉公園を目指す。筆者にとっては十一年振りの住吉公園。ここから島に橋が掛かっているが川岸は堤防で覆われ、橋を渡れなくなっている。島は立入禁止である。辛うじて巻石らしき物が見える。九郎判官や松尾芭蕉にちなむ旧跡でもあり、石碑や案内板がいくつも建てられている。初代石巻市長・石母田正輔の胸像もある。以前来たのはここだろうかと考えていると、川村孫兵衛の碑に古代中国の帝王・禹の事が書いてあるのを見付けて、やはりここだったと確信する。SEI氏によれば、石巻市の児童は小学校で孫兵衛について学ぶと言う。水沢市でも三偉人即ち高野長英、後藤新平、齋藤實について小学校で教えられる。今もそれぞれの市で市民に慕われている偉人達である。その一方で石巻市民の間でも布施辰治は人気が無いと言う。筆者も一時期本を読んだり映画を見たり、ネット上で彼の親族を名乗る人と交流したりしたが、やはり布施は左翼反日勢力のアイドルではないか。社会主義体制による人権弾圧の世界的権威・スターリンから勲章を受けていた布施、それを遺族が返上したと言う話は聞かない。
 公園敷地内の大島神社に参拝。また、裏手の丘の麓にいくつも小さな社があり、それぞれに参拝する。既に水沢市内で初詣を済ませているので、この日だけで十ケ所位の社を参拝している。
 更に裏手の丘に登る。嘗てはここに灯台があったと言う。ここの頂上にも仏像がある。
 下りて住吉町を更に北上する。人通りは少ない。空き地が目立つ。
 市教育委員会が設置した「志賀直哉と住吉町」と言う案内板がある。小説家・志賀直哉はこの付近の生まれらしいが正確な場所は判明しておらず、またSEI氏によれば、志賀自身が石巻市出身扱いされる事を嫌っていたと言う。戊辰戦争の際に榎本艦隊もここに立ち寄っていると言う。榎本艦隊の宮古湾大海戦は今でも岩手県では語り草である。
 住吉小学校まで到達してから、今度は丘に登らずそのそばを通って再び萬画館に戻る。十六時頃。
 また館内あちこちを上から下まで見て回る。BLUE ZONEは十六時半頃で終わるので入れない。
 珍しく墨汁一滴で買い物。ビデオプラザ神奈川のDVD「巨大津波の脅威 いつどこでまた」。早速年間パスポート行使で五パーセント引き。
 カレンダー無料持ち帰りの一角があるが、そこの表示が「TEKE FREE」。アテンダントに通報しておく。
 十七時前に館を出て、駅でSEI氏と別れる。十七時十二分発に乗り、居眠りしている間に小牛田に着いている。十九時五十六分水沢着。帰宅して二十一時から、キッズステーションで昨秋のアニソンライブの番組を見る。

 まずは終日好天で良かった。新年早々鉄道が遅れてはたまらない。
 元旦から賑わっていた萬画館。周囲で他に開いている施設等も無かったので、まさに萬画館目掛けて出掛けた人が多かったのだろう。再開時の熱狂だけで後は閑散、ではなく、持続して欲しいものだ。
 マンガランド構想を振り返る特別企画展は開館後間も無くの頃のアンサー・エキシビジョン以来十一年振り。再開後の特別企画展第一弾としてふさわしい企画だと思う。マンガランド愛好家も反対者も必見の内容である、礼賛でも批判でも過去の経緯を把握しておくべきである。
 ただ今回も「アンサー」の時同様、構想の陰、負の部分の展示が無い。昨年の週刊ダイヤモンドの記事やそのツイートを発端とするネット上の騒ぎも紹介して欲しかった。当然だが石巻市民全員が構想に賛成しているわけではない。また、トヨタCMを流すだけでなく、生誕地やふるさと記念館の存在について説明展示が欲しかった。石巻市がどんなに頑張っても、章太郎の生誕地が登米市である事は絶対に動かない。
 ビデオプラザ神奈川のDVDは去年三月に出ていた物。昨夏のヒーローサミットの際に松島町で買ったDVDの続編である。地震専門家の出演の他、今回もまた淡々とあの惨劇の様子、痕跡を綴る。
 平成二十五年の差し当たりの筆者の目標は、海斗の新怪人見物と、未だ果たせぬ八幡家での食事。二月十二日からの再休館の前に、平日にでも八幡家に行き、また現萬画館の見納めをしておきたいとも思っている。

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