「石森章太郎ふるさと記念館」第八十七回訪問記

平成二十五年五月十二日(日)

 盛岡組の一人は大の日本刀愛好家である。前回訪問記で紹介した登米市の登米懐古館「刀装魂」を知らせておいたところ、ふるさと記念館松本零士と一緒に回ると言う話がまとまる。
 筆者は八時頃、マシンで自宅出発。気温十八度、晴れ。実に快適にいつもの道程を走る。
 伊勢岡神明社に参拝してから南側駐車場にマシンを置く。開館は九時半なので暫し館の敷地内にいる。筆者以外にも、早く着いて開館を待つ人々が数人いる。工事中の門には例の「蔵」について、工事の遅延と七月末までの修繕完了を告げる貼り紙がしてある。
 開館と同時に本館に入り、受付に今日の軍団集結を告げる。エントランスに設置してある登米市の観光パンフレットに目を通す。丁度市内施設のスタンプラリーが開催されている。
 十時半頃までに盛岡組二人と石巻市のSEI氏到着、軍団集結。以後、四人で行動する。筆者から各氏に観光パンフレット(スタンプラリー用紙)を配る。早速本館で押印一つ。
 まず特別企画展鑑賞。原画の制作時期によってメーテルの顔が異なる事が話題になる。筆者はどうしても「999」について喋り出すと熱を帯びる。
 前回訪問時よりも展示品が増えている。入り口近くに「男おいどん」原画。一番奥には新聞雑誌類、宇宙戦艦の模型、映画ポスター等がぎっしりと並べられている。空白が目立った前回から大変な様変わり。
 テレビセットでは相変わらず劇場版第一作DVDを上映中。丁度大山トチローの最期、酒場での鉄郎の危機へのハーロックの助太刀、そして愛するトチローの死を知るエメラルダス。やはり一同、つい見入ってしまう。ハーロックが機械人間に牛乳を飲ませる場面、その牛乳瓶は紙の蓋のようである。
 生家に移動して座敷に上がり、暫し休憩、歓談。筆者とSEI氏は持参した本を広げる。筆者が披露したのは東京国立博物館で開催中の国宝・大神社展の図録、最近古本屋で入手した日本刀の図鑑等。大神社展では神宝の刀剣も展示されていた。また、SEI氏のノートパソコンで、五月上旬に訪問した青森県で撮った写真も見せる。
 SEI氏のマイミク氏夫妻も生家に来る。彼等とも会話をする。
 十二時頃か、登米町に向けて出発する。筆者はSEI氏の自動車の助手席に乗り、盛岡組の自動車が後に続く。筆者が道案内をする。
 二十分程で登米町の「とよま観光物産センター遠山之里」に着く。駐車場満杯ですぐには入れないが程なく前の車が出て行くので二台共駐車できる。
 「喰膳 蔵.ら〜」に入る。少し待ってから空席が出て着席。各自違う品物を注文する。ふと見れば、卓上に置かれた備品に藤岡弘、の特徴的サイン。筆者は「はっと定食」、八百円。ほぼ同時に全員の料理が来る。会計の時にスタンプを貰う。
 食事の後に隣の売店で買い物。こちらも団体客等で大混雑。筆者は自分用に「椎茸しいたけそば」「椎茸うどん」を買う。押印。
 このスタンプラリーでは参加施設の他、日曜日に登米町に出没すると言う「ハイカラさん」に遭遇すれば、その場で彼女達からもスタンプを貰える。建物の入り口近くにたたずむ「ハイカラさん」を見付ける、昔の女学生のような袴姿の若い女性二人組。軍団の皆を呼び寄せて各自押印を受ける。
 自動車を置いたまま、向かいの登米懐古館に向かう。遠山之里の駐車場が同館の駐車場を兼ねている。以後、今回「みやぎの明治村」内の移動は徒歩である。
 丘の上にある登米懐古館。受付でこれから回る施設との共通券を買い、押印。この日は刀剣の専門家が来て手入れについての相談会、展示解説実施。展示室のそとのロビーでは机を置いて、専門家らしき人が数名に囲まれて話をしている。
 展示室の手前に昔の登米の地図が掲示してある。登米要害は別名臥牛城、実は我が水沢要害も臥牛城と言う。江戸時代に伊達領で正式な藩として認められていたのは仙台と一関のみで、水沢や登米は要害と呼ばれた。しかしながら登米は二万一千石、水沢は一万六千石の石高を持っており、一万石以上が大名なので、伊達領内には大名並みの領主が何人もいた事になる。そのような実力ある領主達の存在の為に、伊達領内は統制を取るのが難しかったとも言われている。有名な例では、かの伊達騒動で原田甲斐が謎の刃傷事件を起こしたのは、登米要害と隣の涌谷要害の領地争いの裁判の場に於いてである。
 展示室内に入ると丁度、宮城県美術刀剣保存協会の腕章を着けた人が我々に解説を始める。材質、工法等、日本刀にまつわるいろいろな知識。目抜き通り、しのぎを削る、鍔迫つばぜり合い、反りが合わない等の言葉は日本刀由来。そのうちのいくつかについては筆者も今回初めて、日本刀由来だと知る。日本刀とは高価なもので、異なる時代の貨幣価値の換算は難しいが、現代で言えば自動車一台分くらいにはなりそうだ。解説者氏の言葉に筆者は「それは知らなかった」を連発。
 展示室手前には伊達領の古地図も掲示されている。筆者は現在の水沢市の辺りを指し、駒形神社の境内社に由来する鹽竈しおがまが当時の村名だった事や、坂上田村麻呂と戦った当地の族長・阿弖流為あてるいにちなむとされ、今も残る地名である跡呂井あとろい等を諸氏に解説する。伊達領民のSEI氏と筆者の二人はこの地図でいろいろ盛り上がる。懐古館には一時間くらいいただろうか。
 丘を下りて次は遠山之里の隣の教育資料館に向かう。ここはさほど混んでいない。建物の土壁は崩れ易いので触ってはいけない。今、再び見てみれば昔の軽便鉄道・仙北鉄道の資料も展示されている。ここも一時間くらいか。
 先を急ぐ。続いて水沢県庁記念館。「みやぎの明治村」で筆者が一番好きな施設である。ここはあまり長居しない。
 最後の警察資料館までは少し距離があるが徒歩の範囲内である。途中、信号機の交差点で地元の人に道を尋ねる。館内には今回の大地震での殉職者や救援活動についても紹介されている。トメルンダーと言う登米署の手作りヒーローは往年のメタルヒーローのゲストキャラで出て来そうな姿だ。盛岡組の一人とSEI氏は奥の牢屋の中に入って行くが、筆者はやはり気持ち悪くて入れない。ここにも昔のサーベルが展示されている。啓蒙の為に作られたと言う明治時代の違法行為解説の絵には、他人の庭の果実の盗み喰いや往来での乗馬での暴走のように解り易い事例もあれば、女性の断髪や無届けでの外国人宿泊のような、今ではどうして違法なのかよく解らない事例もある。
 十六時半少し前くらいに、駐車場に向かって戻り始める。途中、春蘭亭に立ち寄ってみるが営業終了後。遠山之里に戻ってから各自、自販機の飲料等で一服。この時になってから筆者は「帰りの鞄を軽くしたい」と東博土産のクッキーを出す。その名も神社クッキー、生姜味。
 十七時頃、解散。筆者は盛岡組の自動車にふるさと記念館まで乗せてもらう。そこから再びマシンに跨り、少し寄り道してから十九時前には帰着。帰路での気温は十二度、少し寒い。  

 筆者は九年前に初めて「みやぎの明治村」を訪ねて(「石ノ森章太郎ふるさと記念館」第二十五回訪問記参照)、その後も水沢県庁や登米懐古館は何度か訪れていたが教育資料館と警察資料館は初訪問以来。以前から盛岡組に案内したいと思っていて、それが今回、好天の下でそれが叶った。最高の一日だった。付き合ってくれた諸氏に感謝。
 今回回った施設の他にも、近隣に菅勘資料館町屋ミュージアムや高倉勝子美術館があるし、他にも筆者もまだ行っていない施設がいくつかある。また折を見て、「みやぎの明治村」を研究してみようと思うし、また諸氏を案内したい。あまりにもふるさと記念館の「蔵」の再開が遅れるのなら、次は登米町の飲食店探訪を始めてしまうぞ。
 ふるさと記念館松本零士展は思いがけず展示品が追加されていて嬉しかったが、本来は記念館自身が「何日から展示品を追加したので前に来た人もまた来てね」と宣伝すべきである。
 年間三回の訪問で友の会会費の元は取れる。つまり筆者は訪問すればするほど、ふるさと記念館に損害を与えている事になる。
 椎茸そば、椎茸うどんは登米町森林組合謹製。確かにきのこの香りがする。

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