「石森章太郎ふるさと記念館」第六十八回訪問記

平成二十二年十月三十日(土)

 さすがに十月末ともなれば寒冷にはなる。十一時頃、曇天の下マシンで出発。気温は十度近くにまで下がっている。
 国道三百四十二号線から県道百九十号線に入り、まず伊勢岡神明社参拝。それから館の北側駐車場にマシンを置く。十二時過ぎ。
 寒い。体が冷えている。「めだか」に入店すれば小野寺夫妻在店。温かい食事を希望してまずハンバーグカレーを食す。ここで小野寺おっかさんに会えたのでこの日は生家には行っていない。「めだか」でも本館でも、関係者達に先週の特別企画展会期初日や十一月二十日の催し物の不参加を釈明、通告しておく。
 本館。第36回特別企画展「原孝夫お仕事展」十月二十三日(土)から一月二十三日(日)まで。
 原孝夫は石森両館の総合プロデューサーであり、グラフィックデザイナー。数多くのポスターや書籍の装丁、石森両館関連を含む各種商品の意匠を手掛けた。幾人もの漫画家達と交流を持ち、マンガジャパンの事務局長でもあった。昨年、五十三歳で死去しており、今回は記念館10周年記念と共に追悼企画でもある。漫画家達の活躍を裏方として支えた人物である。チラシ、ポスターには本人の写真は載っていない。これだけ石森両館に通っていれば筆者も何度か原孝夫の姿を見掛けてはいるが面識は無い。
 エントランスには萬画館関係者からの花束が置かれている。企画の入り口近くに、漫画家達から生前贈られた色紙が何枚も飾られている。ふるさと記念館歴代の特別企画展ポスター類、書籍、郵便切手、記念品等、数え切れない。作品のいくつかには、原本人の注釈が添えられている。意匠の意図や漫画家達との検討内容等。本当に活躍は多岐に亘る。総じて適切な説明文が付されており、何なのか解らない展示は無い。
 また、原個人の経歴の年表も大きく掲示されている。漫画家を目指して十五歳で上京、働きながら高校と大学を出たのは偉い。高校時代にプロの漫画家の展覧会を開催したり、自分の会社を設立したりしているので企画力は早熟だったのだろう。手塚治虫の下で働いた経験もあり、原所有の「ジャングル大帝」最終回の原稿一ページも展示されている。
 原の作品と母校・日大での講義の模様を収録したDVD上映。作品紹介のBGMは何故か宙明。
 客は少ない。子供や老人の姿は無く、いずれも青年層である。
 十四時過ぎにマシンで館を出る。記念館前の県道二百号線を南下してやがて右折して同三十六号線に入り、五分ほどで登米市歴史博物館に着く。ここも迫町歴史博物館として開館してから十周年。見学はこの日が初めて。
 建物は一関、北上、花巻の各市立博物館と比べると小さい、寧ろ水沢市の三偉人それぞれの記念館と同程度の大きさだが学芸員は配置されている。入館無料。記念企画展「未来への記憶〜先人が残した登米市の文化財〜」十月二日(土)から十一月二十三日(火)まで。ここは亘理氏の城下町で、常設は江戸時代中心の展示がされている。登米市と称しつつもまだ旧迫町の展示に偏っており、必ずしも合併後の登米市全体には及んでいないようである。尤も、市内の豊里町、登米町、南方町にも博物館的な施設はある。
 情報スペースに置いてある「宮城縣史」を開いてみる。筆者にとっては高校時代に部活動で愛用した懐かしい本である。この本では登米市出身の丸山権太左衛門を二代目横綱としている(協会公認では三代目)。また、儒学の項目には案の定、岩手県一関市出身の芦東山が掲載されている。何度も言及しているが岩手県南は伊達なので、調べ物の際は岩手県のみならず宮城県の歴史も参照しなければならない。
 博物館には一時間強程滞在してからふるさと記念館に戻る。「めだか」で油麩そば。
 そしてまた本館の企画や常設に出入りする。企画のテレホンカード展示の中に三菱乾電池の「RX」がある。
 寒いと言いながら「めだか」でラムネを一本飲む。
 十七時頃、辞去。帰途で買い物をして十九時直前に帰宅。

 世間での原孝夫の知名度は知らないし、少なくともわざわざ「原孝夫を見たい」と言って親にせがむ子供はいないだろう。しかし今回は原孝夫と言う人を知らずに見に行っても楽しめる。現在の日本の漫画界の縮図とでも言うべき展示内容で、説明文も充実している。現在の日本の漫画に関心のある人で今回の展示品の中に知っている作品や漫画家が全く無いと言う人はいないのではなかろうか。章太郎や石森と深い付き合いがあったと言うだけでなく、業績は本当に幅広いのである。何より石森両館の常連には必見である、実に懐かしい。

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