「石森章太郎ふるさと記念館」第百四十回訪問記

令和二年十一月二十三日(月)

 今回はふるさと記念館に至るまでが長い。
 晴れているので八時過ぎにマシンで出発。
 筆者は初めての道、慣れない道を走行する時はスマートフォンにイヤフォンを装着してGoogleMapの音声案内を使っている。この日は試しに出発から起動させてみる。国道四号線から平泉町或いは一関市で左折せず、ひたすら直進南下を続けて知らない道に入る。栗原市に入り、有壁地区を通過し、やがていつもの三百四十二号線に出てしまう。そして登米町の海老喜の角を右折して明治村界隈に入り、一時間四十分程で登米懐古館に着く。「伊達宗倫没後350年記念 宗倫と覚乗寺のキセキ」開催中。寺池の四代目についての企画展である。御宸筆、刀剣、蒔絵、多岐に亘る展示。常設と企画の図録を買おうにも手持ちが無く、徒歩で登米局まで行ってATMで資金調達してから館に戻って購入する。
 晴れているが風は冷たい。
 遠山之里にマシンを置く。
 教育資料館。改めてみると教育勅語の展示がいくつもある。二階で企画展「学校日誌に見る『スペイン風邪』」開催中。学校の記録の他に新聞記事やポスター等。
 蔵ら〜.でセットを喰らう。油麩丼とはっと汁。
 もう一度教育資料館を見る。
 ここから全くの未知の道を通る。少し進んではスマートフォンの画面を見て農村地帯を走り、やがて鳥居を潜る。鳥居と言っても神社に非ず、天台宗大嶽山興福寺。阿修羅像等で有名な南都の同名の大寺院とは宗派が違うし無関係である。嘗て征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の大幹部である大嶽丸を斬り、埋葬した上に建立したと言う。
 目当ては観音堂。明治時代の建築の外壁に二十四孝の絵が彫られている。二十四孝とは昔の中国の儒教道徳に則った孝行者の説話である。年老いた身内を養ったり、家業を手伝ったり、土産物を持ち帰ったりはいいとして、自分の親を養う為に我が身を傷付けたり、我が子を殺そうとしたり等、理不尽な話がいくつもある。尚、二十四孝の全てが掲げられているわけではない。悪名高い「自分の母乳を姑に飲ませる孝行嫁」の絵は無い。ボタンを押すと解説音声が自動で流れる装置がある。その音声でも、二十四孝の理不尽さを認めている。尚、観音堂以外にも扁鵲や朱子等、中国故事の絵が境内のいくつかの建物にある。
 この寺のガイドブックを販売中、希望者は庫裡へと言う掲示があるのでそちらに向かう。丁度住職夫人と住職がいる。住職からガイドブックを受け取り、少し立ち話。そもそも親孝行とは儒教の徳目なのに、教義の異なる仏教寺院に掲示されているのがおかしいと筆者は指摘する。儒教は立身出世で親孝行をして子孫を残すのが本義だが、家族も地位も財産も捨てて出家するのが仏教。しかし日本では儒教と仏教が融合して、所謂葬式仏教の本質は儒教だと言う。
 そこからまた初めての道を通るが米山の道の駅のそばも通った気がする。次は登米市歴史博物館。今回の訪問の前週、フジテレビ「世界の何だコレ?! ミステリー」であばれる先生がここに来た様子が放送された。受付の職員に番組を見た事を話すと、番組が真面目に取り上げてくれたと言う事で喜んでいる様子。市制15年・歴史博物館開館20年記念「まもり・いかし・つたえる〜登米市の文化財15年〜」十月十日(土)から十二月六日(日)まで。市内の文化財の展示。
 そしてここからは慣れた道、ふるさと記念館到着は十六時頃か。特別企画展千秋楽。期日最初と最後の客が筆者である。記念撮影等をして楽しむ。「何だコレ?!」はここでも話題になる。
 十七時過ぎに辞去して十九時前の帰宅。

 今回はみやぎの明治村その他登米市内の文化財見学が主目的でふるさと記念館はついで。
 しかし今にして思えばこの時点でNHK「おかえりモネ」のふるさと記念館ロケは既に済んでいたのだ。当然だが全く話題に上らず、筆者が知る由も無く。

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