「石森章太郎ふるさと記念館」第百二十六回訪問記

平成三十年七月二十一日(土)

 七時半頃にマシンで出発。固より高速道路は利用しないので、最近は県外へ行くのでも専ら原付二種使用だが、自動二輪も維持はしている。
 伊勢岡神明社参拝。既に暑い。
 九時少し前に着くと開会式典が丁度終わるところ。例によって顔なじみが集まっている。館長経験者三人の姿が見える。
 第59回特別企画展「『大相撲マンガ場所』展」この日からから十月二十一日(日)まで。ちばてつやと章太郎の相撲作品と、実際の大相撲の物件の展示。ここでのちば展の開催は十七年振り。
 たまに触れているが筆者は好角家である。但し専らテレビ桟敷で、岩手宮城両県での巡業は三十年以上前から見物しているが本場所はまだ。筆者の雑誌投稿の初採用は昭和六十一年頃の月刊大相撲。一時期は角界に知己を得て巡業の支度部屋等に出入りをした事もある。今は岩手県出身力士が複数所属している伊勢ノ海部屋を応援している。忘れもしない平成三年夏の仙台巡業で、まだ若手だった若貴兄弟の取り組みが終わると観客の半分くらいが帰ってしまい、筆者は「これは若貴人気であって決して大相撲人気ではない」と思ったら果たして若貴引退後、モンゴル出身横綱が君臨するまでの角界の惨状は周知のとおりである。特定個人の人気に依存する業界は衰退も早い。
 ポスターではちば「のたり松太郎」と章太郎「大江戸相撲列伝」を二枚看板にしている。企画の順路ではまず「列伝」、最後の方に「松太郎」、中央奥に大相撲の物件が展示されている。
 「列伝」に登場するのは浪乃花、緋縅ひおどし阿武松おうのまつ。初めて鑑賞する作品である。
 「松太郎」のアニメは見ていた。筆者が見た唯一の大相撲アニメだと思うがそもそも大相撲アニメ自体が少ない。漫画原画を見ながらアニメの事を思い出す。
 大相撲展示には東関部屋の物件が多い。化粧回しや明け荷。また、当代人気力士の写真や手形も展示されている。写真の一つの説明文の誤りに気付いて説明文だけ撤去させる。
 実は登米市内からは江戸時代に横綱が出ている。米山町出身の丸山権太左衛門。相撲協会では第三代(三人目)横綱としているが宮城縣史のように二人目としている文献もある。現在まで協会が公認する横綱七十二人のうち、初めの明石志賀之助、綾川五郎次、そして丸山については詳細が不明で、星取表等の詳細な記録が残る四人目の谷風梶之助が実質的な始祖と言うのが定説ではある。丸山が本当に横綱だったのかどうかはともかく、実在の人物なのは間違いない。道の駅米山には銅像や記念碑、土俵があり、丸山を偲ぶ事が出来る。筆者も一度、偶然立ち寄った事がある。レリーフの手形は巨大である。彼の「ひとつかみ いざまいらせん 年の豆」は筆者の一番好きな俳句。今回、写真パネル等で割りと詳しく紹介されている。
 その明石から稀勢の里まで、七十二人の横綱肖像画、写真一覧が掲示されている。明石と綾川の絵については初めて見る代物、相撲の本等でも見た記憶が無い。宮城県からは丸山と仙台市の谷風の他に、気仙沼市から秀ノ山雷五郎、白石市から大砲萬右衛門と四人の横綱が出ており、これは東北地方では青森県に次いで多い。但し明治末期に大砲が引退してから百年以上、宮城県からは横綱が出ておらず、大関も大正年間に現役死した涌谷町出身の駒ヶ嶽國力が最後。筆者がこの現状を「相撲王国宮城の大空位時代」と呼んだのが前述の平成三年である。大空位時代は今も続く。
 展示を見れば解答できる簡単なクイズが実施されており、三問全問正解すると東に章太郎、西にちば作品の登場人物を配した番付表を貰える。本郷猛は横綱、南光太郎は関脇。
 迫町の登米市歴史博物館に向かう。企画展「モノノケたちの夏〜地域の化物ガタリ〜」六月三十日(土)から八月二十六日(日)まで。市内外に伝わる妖怪関係の絵巻や文献等の展示。かの柳田國男や佐々木喜善も当地に来ている。また、東洋大学の学祖にして妖怪博士・井上円了の資料もある。
 またふるさと記念館に戻って正午頃に帰途に就く。この日、東洋大学出身の御嶽海初優勝。

 このとおり筆者は大相撲について語らせれば饒舌である。漫画作品の鑑賞よりも大相撲についての記述が殆ど。やはり今回の目玉は丸山権太左衛門だと思う。
 また見に行く。

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