朝目を覚まし、未だ眠りに就いている真琴を起こさないようにと気遣いながら蒲団から這い出る。そして制服へと着替え、いつものように一階へと降りる。
「むがっ!?」
その瞬間、突如として鼻を襲う異臭。あまりの焦げ臭さに耐え切ることができず、私は台所へと駆けつける。
「なっ、なんじゃこりゃぁぁぁ!?」
そこに広がる異様な光景に、私は自分の目を疑った。いつもは綺麗に彩られた料理の品々が並ぶ食卓が、何を間違ったか、黒くて異臭を放つ謎の物体ばかりで埋め尽くされていた。
「あっ、おっはよー! 祐一くん」
そんな異空間の中心で、いつもと変わらない笑顔で朝の挨拶をするあゆ。この非日常的な光景を目の当たりにしても尚正気でいられるとは、肝が据わっているというか、単に天然なだけだというか。
「これはお前の仕業か?」
いつも朝食を作ってくれている秋子さんの姿が、何故か今日は見当たらない。そして、水瀬家の住人の中で一番台所に不釣合いなあゆがいることを踏まえると、この料理を作った張本人は目の前のあゆとしか言いようがない。
「うん、そうだよ!」
あゆは臆することなく、自分が真犯人だとあっさりと白状した。少しくらい抵抗の意を見せてくれた方がこちらとしては面白かったのだけれど、こうも簡単に罪を認められると、こっちの調子も狂うな。
「何故お前が作った? 秋子さんはどうした?」
「秋子さん、いつまで経っても起きてこないんだよ。だから、マフラー編んでもらったお礼に、今日はボクが朝ご飯を作ることにしたんだ」
そう言えば秋子さん、一昨晩夜鍋してあゆのマフラー編んでたもんな。その疲れが今日になって身体に表れたんだろうな。そんな秋子さんにご恩返しとして代わりに朝食を作ってやるというあゆの心意気見習うべきものがあるな。料理の腕前は別として。
「やれやれ。お前の気持ちは分かるとして、せめて名雪に手伝ってもらえば良かったのにな」
この惨状があゆの善意によるものだと分かり、私の怒りはいつの間にか収まっていた。けど、一人で頑張ろうとする心意気は殊勝だけど、せめて名雪に手伝ってもらえばいいのに。
「名雪さん、今日は朝練があるって、とっくにバスで学校に行っちゃったよ」
「そうか、なら仕方ないな」
しかし、あの名雪が寝坊しないで学校に行くとは驚きだ。多分、あゆの手前上寝ぼすけな醜態を晒すわけにはいかないと、張り切ってるんだろうな。
一生懸命作ったあゆには申し訳ないけど、甚だ不健康そうな黒焦げの料理には食欲が湧かず、私は朝食を取らないまま学校に行くことにした。
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第四拾参話「明かされた關係」
何だかんだで学校に行く時間になっても秋子さんが起きてくる気配はなく、仕方なく私は潤に送られて学校に赴くことにした。
「祐一、今日の放課後ちょっといいか?」
昨日の未明辺りから降り積もった雪の道をバイクで颯爽と駆けながら北上川に架かる橋を渡った辺りで、潤が声をかけて来た。
「放課後か? 悪い、ちょっと先約が入ってるんだ」
と、私は丁重に潤の誘いを断った。時間があれば応じられるかもしれないけど、とりあえず赤坂さんとの約束を果たすのが先だな。
「そうか。ならその予定が終わってからでいい。ちょいとオレたちに付き合ってくれ」
「オレたち?」
潤一人ではなく“オレたち”という言い回しに、ちょっと引っかかるものがあるな。少なくとも、個人的な事情というわけではないのだろう。
「先週の水曜日、校長室で行われた話し合いは覚えてるよな?」
急に声のトーンを落とし、真剣な口調で語る潤。どうやら潤の話は、例の陰陽師に関することのようだ。
「ああ。ひょっとしてついに例の陰陽師が学校に来るのか?」
「ああ。最も、その前に“先遣隊”が来るって話だった」
「先遣隊?」
「何でも、対怨霊用の兵器を開発したとか何とかで、あっちから派遣される人たちと一緒に、オレら應援團もテストに加われってことだった」
何やらこの33年間、怨霊が再活動した時を想定し、怨霊と真っ当に対峙できる兵器を開発したという話らしい。
「先方からは、被験者の数は多い方がいいって話で、良けりゃ祐一もどうかって誘ってみたんだが」
「分かった。先約の用が済んだら、潤に付き合うぜ!」
「お前ならそう言ってくれると思ったぜ! サンキュー、祐一」
正直、得体の知れない怨霊と戦う気にはなれない。けど、その兵器を使えば例の魔物にも対処できるのではないかと思い、私はリスクを承知で潤の誘いに乗ることにした。
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「はい、もしもし。相沢ですけど?」
学校に着くや否や、携帯のバイブがせわしなく鳴り出した。こんな朝っぱらに何の用だと呼び出しに応じた。
「祐一くん! 祐一くん!!」
すると、電話の先から、慌しい声で叫ぶあゆの声が聞こえて来た。
「あゆかっ? 一体どうしたんだっ!?」
普段は屈託のない笑顔を見せてくれるあゆ。そんなあゆがこんなにまで切羽詰った声で電話して来るんだ、何か良からぬことが起きたに違いないと、私は問い返した。
「秋子さんが、秋子さんがっ……! うぐぅ……!!」
「秋子さんがどうしたって、あゆ!?」
「秋子さんがこのままだとお母さんみたいになっちゃうよぉ……!」
「落ち着け! まず深呼吸して、それから何があったか話してみろ」
私はあゆに気を落ち着かせるよう声をかけつつ、急いで教室へと駆けつける。この様子だと、秋子さんに何か重大なことが起きたのは間違いない。あゆから詳細を聞くと共に、名雪にもそのことを伝えなくてはならない。
「秋子さんがずっと起きて来ないから、ボク、心配で見に行ったんだ……。そしたら、秋子さん苦しそうで……熱があって……それで……うぐ……」
「それで、秋子さんは意識がないのか?」
「ううん。呼びかけたら、風邪で大丈夫だって言ってたけど」
「そうか」
「祐一くん、ボクどうしたらいいの!? ボク、秋子さんがお母さんみたいにいなくなるの、イヤだよぉー!!」
あゆは一通り秋子さんの容態を喋ると、また酷く狼狽した声で叫び続けた。
「落ち着けって! 秋子さんは、自分のことは自分で判断できる大人の人だ。だから、その秋子さんが大丈夫だって言ってるなら、心配する必要はない」
「でも、でもぉ……!」
「大丈夫だ。風邪くらいで秋子さんが死んだりはしない。お前が看病してやれば、きっと良くなる」
「ボ、ボクがっ!?」
「そうだ。もちろん、お前一人だけじゃない。家には真琴だっているんだし、心配なら、古河さんに助けを呼ぶ手だってある。とにかく騒いでるばかりじゃ何も始まらない。気を落ち着かせて、秋子さんを看病することだけ考えるんだ!」
「祐一くん……。分かったよ、ボク、やってみるよ!」
あゆは私の言葉を受け入れ、ようやく気を落ち着かせてくれた。
「頑張れ、あゆ。私も休み時間になったら電話をかけるから」
「うん、分かったよ、祐一くん。それじゃ」
最後にあゆはハッキリとした声で受け答え、電話を切った。正直あゆ一人では荷が重過ぎるだろう。でも、真琴や古河さんの手を借りればきっと大丈夫だ。
私はあゆを信じて、教室へと駆け足で向かって行った。
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「あゆ、秋子さんの様子はどうだ?」
1時間目後の休み時間、私は名雪立会いの元、あゆに状況確認の電話をかけた。
「もしもし、祐一お兄さんですか?」
「その声、渚ちゃん!?」
電話を取ると、驚いたことに応対したのは渚ちゃんだった。
「はい。お久し振りです、祐一お兄さん」
「こっちこそ久し振り。君が看病の手伝いに来たの?」
「はい。お父さんもお母さんもお仕事が忙しかったから、わたしが手伝いに来ちゃいました。力不足でしょうか?」
「いいや。とっても心強いよ」
正直あゆと真琴には悪いけど、一番年下の渚ちゃんが最も頼りになる気がする。
「えへへ。祐一お兄さんに誉められると、何だか嬉しいです」
「それで秋子さんの体調は?」
「はい。少し熱が下がりました。ですがお薬がなかったので、今真琴ちゃんが買いに行ったところです」
「真琴が自主的に買いに行ったのか?」
「はい。お薬がないって言ったら自分が買って来るって家を飛び出してきました」
「そうか」
いつも突拍子のないところがある真琴だけど、あいつの行動力はいざっていう時に役立つもんなんだな。
「真琴は飲ませ方とかは分からないだろうから、後の対応は渚ちゃんが行ってくれ」
「分かりましたです」
「それであゆはどうしてる?」
話題を変え、私はあゆが今何をしているか聞いてみた。渚ちゃんの手前上あたふたとまごついているだけということはないだろうけど、やっぱりちゃんとやっているかどうか心配になる。
「あゆお姉さんは今、秋子さんに食べさせてあげる軽い物がないか探してるところです」
「そうか。状況は大体分かったよ。ありがとう」
「どう致しまして。それでは一旦電話を切りますね。何かありましたなら、また連絡お願いします」
そう言い、渚ちゃんは電話を切った。中学生とは思えない手際の良さに驚くばかりだけど、渚ちゃん一人がいるだけで、安心感が一気に増すな。
「そういう訳で、秋子さんは大丈夫みたいだ」
電話を切った後、私は名雪に秋子さんの現状を伝えた。
「そう、それは良かったよ」
「けど、あいつらに料理なんて作れるのかな?」
恐らく食材が揃ったところで作り始めるのだろうが、私は一抹の不安を感じられずにはいられない。あゆの腕は朝の通りだし、真琴は到底作れそうにみえない。唯一期待が持てるのは渚ちゃんくらいかな?
「祐一? そんなにあゆちゃんのことが心配」
「まあな。今日あゆが秋子さんの代わりに朝ご飯作ろうとしたんだけど、結果は散々だった。あゆの頑張ろうって気持ちは理解できたけど、正直真っ当な料理は作れないんじゃないかって」
「そう。なら次の休み時間はわたしから電話をかけるよ」
「えっ!?」
「さっきの電話だと食材があるか探してたんだよね? だから次の電話で今ある食材で何が作れるか、足りない物があったら何が必要かあゆちゃんに教えてあげるよ」
「そうか、分かった」
そして次の休み時間の定時連絡は、打合せどおり名雪から行った。
「もしもし、あゆちゃん?……うん、ジャーの中にご飯が残ってるんだね。じゃあ、お粥の作り方は分かる?……分からない? じゃあ渚ちゃんに代わって」
その後名雪は渚ちゃんに電話を代わり、お粥の作り方を知ってるとのことなので、渚ちゃんに一任しつつ他にどんなのを作ったらいいか詳細に話した。
渚ちゃんは優秀な子だけど、リーダーシップを発揮してまとめるような子じゃない。けど、名雪がしっかりとサポートすることにより、あゆも真琴も混乱なくスムーズに事を運べることだろう。
名雪は陸上部の部長だって話だけど、こんなところで名雪の統率力の高さを思い知らされるとは、夢にも思わなかったな。
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「うん。秋子さん、ちゃんとボクの作ったお粥食べてくれたよ」
昼休みに電話をかけると、秋子さんはちゃんとご飯を食べてくれたと、あゆが元気いっぱいの声で応えてくれた。
「しかし、“ボクの作った”って、ひょっとしてお前一人で作ったのか?」
まさかとは思いつつ、一応あゆに訊いてみた。
「うん! 渚ちゃんに教えてもらいながらだけどね。でも、お粥そのものはボク一人で作ったんだよ!!」
「そうか、よく頑張ったな」
正直あゆ一人で作ったとなると不安しかない。でも、渚ちゃんがサポートしつつ作ったのなら、きっと真っ当に食べられるお粥が作れたことだろう。だから私は、素直にあゆの苦労を労ってやった。
「えへへ。ボク、朝ご飯、上手く作れなかったから。だから今度こそちゃんとご飯作って秋子さんにご恩返ししようって、一生懸命がんばったんだよ!」
「ははっ。そりゃ、良かったな」
「ねえ、祐一くん? ボクちゃんと秋子さんにご恩返しできたかな?」
自分の厚意はちゃんと秋子さんに伝わっただろうかと、あゆが訊ねてくる。
「出来たに決まってるだろ? 料理作って世話までして。あゆの気持ちはちゃんと伝わったよ」
「うん、そうだよね。ありがとう祐一くん。ボク、祐一くんたちが帰って来るまで、がんばって秋子さんの看病を続けるよ!」
「頑張るのはいいけど、あんまり無茶するなよ」
「うん!」
最後に一言元気な声を投げかけ、あゆは電話を切った。やれやれ、この調子だと、無茶してあゆの方が倒れそうだな。でも、それだけあゆは秋子さんに恩義を感じているんだろうな。それこそ、本当のお母さんだと思えるくらいに……。
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「祐一君、今学校の前に着いたんだけど」
放課後、秋子さんの容態を確認しに一旦家に戻ろうとした矢先、赤坂さんからの電話があった。
「すみません。実は……」
私は秋子さんが熱を出し、今から家に戻る旨を赤坂さんに伝えた。
「何だって、水瀬さんが!? 分かった、君の先輩に会うのは水瀬さんの容態を確認してからでいいよ。君は僕が家まで送って行くから」
赤坂さんは一旦家に戻ることを承諾してくれたばかりか、私を家にまで送ってくれるとのことだった。
「わざわざすみません」
「いやいや。僕は妻の死に目に会えなかった人間だからね。だから大げさかもしれないけど、病気の奥さんは心情的にほっとけないんだ」
夫を亡くした秋子さんに、妻を亡くした赤坂さん。どちらも最愛の者を失った者同士だからこそ、赤坂さんは本当の奥さんのように秋子さんの身体を気遣ってくれるんだろうな。
そうして私は、部活が忙しくて早く帰れない名雪を学校へと残し、赤坂さんのレンタカーに乗せられながら家へと戻って行った。
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「あっ、お帰り、祐一」
水瀬家へと戻ると、軒先で真琴が出迎えてくれた。
「ただいま。あゆと渚ちゃんは?」
「あゆさんは秋子さんの看病を続けてるわ。渚ちゃんはお昼ご飯を作った後には二人だけで大丈夫だって、もう帰ったわよ」
「そうか」
「真琴はさっきまで一緒に秋子さんの看病してたんだけど、『後はボク一人で大丈夫』だって言われたから、これからバイトに行くところ」
「そうか。真琴、お前も頑張ったんだな、よしよし」
私は現状を確認すると共に、真琴の苦労を労うように、頭をなでなでしてやった。
「あぅ、ありがとう祐一」
真琴は私が頭を撫でると、あぅあぅと笑顔で喜んでくれた。
「祐一。真琴ね、少しだけ昔のこと思い出したの」
「えっ?」
「あゆさんが秋子さんが大変なことになってるって騒いだ時、自分のお母さんのこと、少しだけ思い出した」
「それで?」
「う〜〜ん。良くは思い出せないんだけど、真琴のお母さんは交通事故にあったの。それで真琴が一生懸命看病してもお母さんは死んじゃって。でもそんな時真琴の前に祐一が現れて、真琴のことを助けてくれて……」
(どういうことだっ!?)
真琴のお母さんが死んで、その場に私が現れた? 真琴の証言を元に記憶を辿ってみる。でも、誰かのお母さんの死に目に会ったことなんて……。
……ん? 待てよ? 確かそんなことが……でも待て、それじゃあ真琴は……
「じゃあ真琴、バイトに行って来るから!」
そう言い、真琴は古河パン屋へと向かって行った。私は頭の中で真琴に関するキーワードを必死に探す。赤坂さんは姉さんが以前沢渡という苗字だったと言っていた。そして真琴は姉さんの本名であるかもしれない“舞花”という名前を知っていた。
思えば私は、あるものに対して姉さんの名前を語った気がする。
そして名雪が語った、「朝廷の制裁を恐れて、“帝”は阿弖流為の子供を“狐”に変化させて山に放し、不思議な力を持った人たちを、ある山奥の村に逃がした」という、この地方に伝わる伝説。
この辺りを加味すると、求められる答えはただ一つ。真琴、お前は“あの沢渡真琴”なのか?
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「秋子さん、入りますよ」
私は一階の奥にある秋子さんの部屋の前に行き、部屋に入っていいかどうか小声で秋子さんに呼びかける。
「ええ、どうぞ」
秋子さんが返事をしてくれたので、私は静かに扉を開けた。
「お帰りなさい、祐一さん」
部屋に入ると、秋子さんが蒲団から上体を起こして、私に微笑んでくれた。そしてその膝元にはすぅすぅと無垢な顔で寝息をたてるあゆの姿があった。
「もう、起きても大丈夫なんですか?」
「まだまだ大丈夫ではないですけど、この子たちのお陰で大分楽になりました、残念ながら」
「残念ながらって……」
それは、あゆたちの必死の厚意に感謝するどころか、余計なお世話だったと言わんばかりの口調だった。
「秋子さん! あゆも真琴も渚ちゃんも、秋子さんに良くなってもらいたいと思って、一生懸命看病したんですよ。それなのに、残念ながらって!!」
普段の秋子さんらしからぬ態度に、私は思わず強い口調で叱責してしまった。
「ごめんなさい、祐一さん。この子たちが私のために一生懸命看病してくれたことには感謝しています。でも……心のどこかではこのまま倒れたらいいのにって思わずにはいられなかったのよ……」
「どういうことです?」
「時々思うことがあるんです……。もしも私が重病を患ったり交通事故に遭ったりして死の危険に晒されたら、あの人が私の前に現れるんじゃないかって……」
「えっ!?」
「だから、今朝体調が優れなかった時も、このまま熱が上がればいい、もっともっと具合が悪くなって意識も遠のくくらい症状が悪化したら、きっとあの人は私を助けて来てくれるって、そう思っていたんです……」
「……」
私は、何も言い返すことができなかった。いつもはしっかりとした一人の母親としてみんなを支えてくれる秋子さん。でも、そんな秋子さんも、行方不明になった最愛の人を待ち続けている健気な女性という側面を持っているのだと、私は改めて気付かされた。
「私はまだあの人が、春菊さんが生きていると信じて疑いません。でも、時々怖くなるんです……。やっぱりあの人は既に亡くなっていて、もう私の元に戻って来ないんじゃないかって……」
「秋子さん……」
「もう10年よ! 私は10年あの人を待ち続けてるのよ!! もう待っても来ないのなら、既に亡くなっているのなら、早くあの人の元に行きたいって、そう思うことさえあるんです……」
自分が窮地に陥ればきっとあの人は助けに来てくれる。もしも既にこの世にいないのなら、そのまま死んで早くあの人の元に行きたい。体調を崩しているせいか、秋子さんの言動からは死相が見え隠れしていた。
「秋子さん、あなたの気持ちは痛いほど分かります。でもあなたが死んだら、名雪はどうなるんですっ!? たった一人残された名雪は!!」
「祐一さん……」
「名雪だけじゃない! あゆも真琴も、みんなみんな秋子さんを本当のお母さんみたく大事に思ってるんですよ! だから、だからそんな、自分の命を軽く見るような発言だけは止めてください、もっと自分の身体を気遣ってください!」
私はぐっすりと眠っているあゆを起こさないようにトーンを落としながらも、はっきりとした声で秋子さんに語った。あなたはみんなのお母さんであるんですから、もっと自分を大切にして欲しいって。
「ふふっ……。祐一さん、あなたも神夜さんと同じことを言うのね……」
「えっ!?」
「お薬を飲んでぐっすり眠っていた時、夢の中に神夜さんが現れたんですよ。その時私は、夢の中で神夜さんに必死に叫んだんですよ、『早く私はあなたたちのところへ連れてって』って……」
そう思うのも無理はないと思った。親しくしていた人たちがみんないなくなって、自分一人だけがぽつんと残されるのが、どれだけ辛いことか。
「でも、神夜さんは悲しそうな顔で首を横に振って私を連れて行ってくれなくて。そして一言だけ私に声をかけたんです、『あの子を頼みます』って……
まったく、酷い人だと思いません? 一人だけ勝手に先に逝っちゃって、残された娘を頼めだなんて」
「秋子さん。それはあなたを心から信頼してるからですよ」
「えっ!?」
「あなたがしっかりとした人で、自分の代わりにあゆのお母さんになってくれる人だと心から信頼を寄せられるから、秋子さんに最愛の娘を任せることができるんですよ」
私は正直、あゆのお母さんがどういう人だかは知らない。けど、信頼の置けない相手に自分の娘を頼むだなんては決して言えない。秋子さんを一人の母親として心の奥底から信じられるからこそ、夢にまで出て来て秋子さんに任せることができるのだと。
「そうかもしれないわね。私が自分の代わりにこの子のお母さんになれるって信じてるから、神夜さんは私に頼みますって言ってくれたのね」
「秋子さん、分かってくれましたか」
「ええ。でも、この子は私をお母さんだと思ってくれるかしら?」
「えっ?」
「だって私は7年前、この子を見捨てたんですよ? そんな非情な私をお母さんだと思ってくれるわけ……」
「大丈夫ですよ。あゆは絶対秋子さんをお母さんだと思ってくれますよ。それは今日のあゆの行動を見れば分かるんじゃないです? 秋子さんを本当のお母さんのように慕っているからこそ、一生懸命秋子さんのために尽くして、そしてこうやって秋子さんに寄り添うようにぐっすりと眠ることができるんですよ」
「そうね……。あゆちゃんは私をお母さんだと思ってくれてるからこそ、あんなに頑張ってくれたのね。ありがとう、あゆちゃん……」
秋子さんは、今日のあゆの苦労を労うように、そっとあゆの頭を撫でた。
「……おかあさん……」
そんな時だった。あゆが少しばかり唇を動かし、たった一言小さく呟いた。“おかあさん”と――
「うっ……うううっ……」
すると、秋子さんは申し訳なさそうな顔で、大粒の涙を流し始めた。
「私はあなたを拒絶したのに! 心の底から憎んでいたのに……!! それでもあなたは私をお母さんって言ってくれるのね……」
そして秋子さんは、あゆを優しく抱き締めてあげた。本当の子供をあやすように、心の底からがっしりと。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。あなたには罪がないのに、あなたを見放して、本当にごめんなさい……! 私があの時あゆちゃんをしっかりと抱き締めてあげられれば、あんな悲劇は起きなかったはずなのに……っ!!
本当に、本当にごめんなさい。あなたもあの人の、春菊さんの子供には変わりないのにっ! あゆちゃんをあの人の子供だって認めてあげられなくて、本当にごめんなさい……っ!!」
…第四拾参話完
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※後書き
1ヵ月に1本書きたいなと思いつつ、結局また2ヶ月近く間が空いてしまいました……。まあ、その間に同人誌の作成や製作に携わった同人ゲームの発売が決まったりしましたので、ご興味のある方はTOPページのリンクから飛んでくださいです。
さて、今回は「みちのくシリーズ」では珍しい、原作準拠のお話となっております。久々にノベライズ版を引っ張り出して書いておりましたよ(笑)。Kanon傳時代はよくノベライズ版を参考にしつつ書いていたので、懐かしいものです。
もっとも、原作準拠としましても、登場キャラの配置やら世界観により、細かいところは色々と修正が入ってますね。その辺りは再構成物の面目躍如と言ったところかなと。
ちなみに、Kanon傳の時は、今回の「1月18日」に該当するエピソードはありませんでした。丸々1日飛んで19日となっております。これは当時、ネタが尽きたので、1日飛ばしたという感じですね。
加筆修正に関し、この日には新しいエピソードを書きたいなと思っていまして、当初は「名雪と祐一が勉強する」原作エピソードを書こうと思いましたが、最終的に「秋子さんが高熱を出して倒れる」話となりました。
あと、秋子さんの最後の発言に関してですが、詳しいことは今話すことではないので、次回の後書きに持ち越します。次回は、ついにあのメンバーが登場予定ですので、ひぐらしファンは楽しみにしていてくださいね。 |
四拾四話へ
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