休み明けの土曜日。半日通えばあとは休みに突入するという本来ならば嬉しい曜日のはずなのだが、俺の心は淀んだ雲で覆われている。今日はセンター試験の一日目。多くの三年生は3年間の積み重ねの成果を示すべく、受験会場という名の戦場で乾坤一擲の勝負に臨んでいる。
そんな中、一人蚊帳の外という感じに居残っている少女がいる。彼女の名は川澄舞。伊吹先生などの話から、俺が10〜7年前に親しくしていた女性だというのは分かったが、俺自身舞先輩と親しくしていた記憶は、未だ思い出せないでいる。
そして、今現在の舞先輩は、時折俺の前で鬼気迫るような仕草を見せることがある。その原因は俺が7年前に舞先輩に対し“大嫌い”だと拒絶の意を示したことにあるみたいだけど、自分自身舞先輩を拒絶した記憶がないのでどうしようもない。
けど、今の俺は舞先輩が嫌いじゃない。その誤解はちゃんと解かなくてはならない。今日は佐祐理さんもいないし、舞先輩と二人きりで話すのにはちょうどいい。
確か潤の話だと、センター試験を受けない三年生は校舎外れの80周年記念館で自習ということだった。俺は舞先輩の姿を探しに、潤に教えられた80周年記念館へと向かう。
「祐一っ!」
記念館へと向かうと、俺が見つけるよりも早く、舞先輩が声をかけてきた。
「あっ、どうも、こんにちは……」
俺は言葉に迷い、妙に改まった返事をしてしまう。本当は舞先輩って親しげに返事したいところなんだけど、“先輩”呼ばわりすると何故か怒るしなぁ。他の呼び方が思いつかないので、仕方なく言葉を濁した返事をせざるを得なかった。
「祐一、お弁当食べよっ!」
「えっ!?」
「昨日、佐祐理から電話があった。明日祐一がお腹を空かせてるだろうから、舞がお弁当作ってあげたらって。だから、作ってきた……」
そう言い、舞先輩は鞄の中から小さなお弁当箱を取り出した。何だか弁当を抱えながら恥ずかしそうにモゾモゾとしている舞先輩は、妙に可愛らしい。まったく、佐祐理さんの気遣いには頭が上がらないな。
(あれっ、先輩?)
よくよく弁当を掲げた舞先輩の指先を凝視すると、包帯でグルグルに巻かれているのが確認できた。普段作らない弁当を、俺のために一生懸命作ってきてくれたんだな。
「わざわざありがとう。早速いただくよ。場所はいつもの踊り場で」
「ううん、今日は違う場所で」
俺がいつものように踊り場で召し上がろうかと言うと、舞先輩は違う場所でと言って来た。
「確かにたまには違う場所もいいかもな。じゃあ今日は学食にでも行きます?」
「ううん、学食じゃない。祐一と一緒に食べたい場所がある……。祐一と私が出会った、思い出のあの場所で……」
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第参拾六話「少女の檻」
「えっ!? ここがっ!?」
舞先輩に誘われた場所は、何と80周年記念館の外だった。こんな味気もない単に寒いだけの場所が思い出の場所だって言われても、いまいちピンと来ない。
「祐一が分からないのも無理はない。だって、あの時まだここは何もない原っぱだったから……」
「原っぱ?」
ここが昔は何もない原野だったって? そんなことはもう覚えていない、ここが原野だったことなんて。仮にここが原野だったとしても、場所自体は俺にとってさほど重要だった気はしない。
「覚えてない? あの日春菊先生が祐一をここに連れ来て、遊んだことを?」
「ごめん、覚えてない……」
俺は率直に答えた。ここではぐらかしたってその後の会話でボロを出すだけだ。なら、初めから本当のことを言った方がいいと思って。
「そう……」
舞先輩が残念そうな顔をして白いため息を吐いた。覚えてないって言えば先輩が悲しむのは分かっていた。でも、俺は先輩の前で嘘は吐きたくなかった。偽りの言葉で先輩を傷付けたくなかった。だから、はぐらかさなかったことに後悔はない。
「でも、私は祐一のことを忘れたことはなかった。ずっとずっと覚えてた……。例え思い出の場所がなくても私の祐一に対する想いはずっと残っていた……」
そう呟くと、唐突に舞先輩は俺を押し倒して来た。
「せ、先輩……」
直に顔にかかる先輩の白い吐息に、柔らかくて大きい胸の膨らみ。突然の出来事にどうしたらいいか分からず、俺は戸惑いの言葉を投げかけるしかなかった。
「先輩じゃない……! 私は祐一にとっての先輩なんてありきたりな存在じゃない!! 覚えてない? 祐一にとって私がどんな存在だったか……!?」
舞先輩は俺をギュッと抱き締めながら激しく問い詰める、俺にとって舞先輩がどんな存在だったかって。
(あっ……)
何だろう? この感じ。舞先輩に抱かれていると、何かとても懐かしい感覚に襲われる。まるでずっとずっと求め続けていた何かをようやく得られたかのような不思議な安堵感に。
「お……姉ちゃん……?」
懐かしい温かみに全身が包み込まれた俺が本能的に呟いた言葉は、“お姉ちゃん”だった。
「そうだ、お姉ちゃんだ……! 先輩じゃない、お姉ちゃんだ……!!」
その瞬間、永久氷壁に閉ざされていた俺の記憶が一気に氷解した。俺は断片的にだが思い出した。舞先輩が、いや、舞お姉ちゃんが自分にとってどれだけ大切な人だったかを!
「そう、そうだよ……私は祐一にとってのお姉ちゃんなんだよ……。よ、良かった、ようやく帰って来た……やっと私の祐一が帰って来た……」
7年間ずっと溜め込んできた思いを一気に吐き出すかのように、姉さんは俺をよりいっそうギュッと抱き締め、心の底から“弟”との再会の涙を流し続けた。
「やっぱり、捨てて良かった……。“捨てたから”祐一が帰って来た……」
姉さんが何か呟いたようだけど、俺は気にならなかった。何故ならば、姉さんが7年間俺の温もりを求め続けていたように、俺自身も心のどこかで姉さんの温もりを求め続けていたからだ。
そうして俺たちは、心行くまで再会の温もりを味わい続けた。もう二度とこの温もりを離さないと強く想うように……。
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「あ、あのさ……」
「何、祐一?」
その後俺と姉さんは、思い出の場所で一緒に昼食を取ることとなった。姉さんがシートを敷き終えた頃、俺は思い切って姉さんに話しかけた。
「何だか“お姉ちゃん”って呼び方は子供っぽくて恥ずかしいから、“姉さん”じゃダメかな?」
先輩って言い方が今まで気にいってなかったんだから、昔と違う言い方したらまた怒るんじゃないかって思って、俺は姉さんに問いかけてみた。
「別に構わないよ。ちょっと言い方は違うけど、私が祐一にとってのお姉ちゃんであることには変わりない言い方だから」
「そりゃ良かった。さすがに学校の中で会った時“お姉ちゃん”って呼びかけるのは恥ずかしいからなぁ」
上級生を“姉さん”呼ばわりするのも恥ずかしいと言うか十分イタイ行為だと思うけど、この際その辺りは気にしないことにする。例え他の生徒から白い目で見られても、俺は舞姉さんを姉さんって呼び続けるまでだ。
「祐一、このたまご焼きどう?」
「うん、なかなかいけてると思うよ、姉さん」
そんな感じに、俺は寒空の中姉さんと一緒に昼食を取った。姉さんとの間にある亀裂が修復した状態での昼食会は、冬の寒さをものともしないほど温かいものだった。
「祐一、覚えてる? 昔もこういう風に私が料理作ってきたこと」
「う〜〜ん、言われてみればそんなこともあった気がするな」
よくは覚えていないけど、時折姉さんが作って来たお弁当を一緒に食べたことがある気がする。
「あれっ? でも確か昔は、姉さんが怪我なんてしたことなかった気がするけど」
徐々に徐々に思い出して来る記憶。姉さんと過ごした在りし日の甘い日々。でも、確か昔は料理を作っても指を怪我したことなんてなかった気がする。
「それは……昔はよく作ってたけど、祐一がいなくなってからは料理を作ってなかったから」
成程、この数年間まともに料理を作ってなかったっていうわけか。それなら昔より作れなくても仕方ないかも。小学生時代より作れないっていうのは、何だか情けない気もするけど。
「私がお弁当を作ってあげられる人は祐一しかいなかった。だから、祐一がいなくなってからずっとずっと、佐祐理が友達になってくれるまでずっと寂しかった……」
そんな話を聞くと、姉さんに対して申し訳なくなってくる。姉さんにとって自分という存在がそこまで大きかったのに、長い間会いに来ていなかったのだから。
「祐一、この剣覚えてる?」
そう言って姉さんが見せた剣は、あの日の夜名雪のノートを真っ二つにしたあの剣だった。
「ああ、覚えてるよ。あの日の夜姉さんが持っていた」
「そうじゃなくて、この剣が何だか分かる?」
「えっ!? その剣が……」
あの日に持っていた剣だという意味ではなく、この剣そのものが何だかってことか?
「あっ、もしかして!」
しばらく思考を張り巡らして、俺は思い出した。姉さんが持っている剣が何であるかを。
「その剣って確か、俺が姉さんの10歳の誕生日にプレゼントした……!」
そうだ、あの剣は確か俺が姉さんの誕生日にあげた剣に間違いないはずだ。
「そう、祐一が私の10歳の誕生日にプレゼントしてくれた大切な剣。祐一がいなくなってからずっと、この剣を祐一だと思って肌身離さず持っていたんだよ……」
そうか、だからあの夜の校舎でも剣を掲げていたんだろうな。でも……
「何で俺、姉さんに女の子には不釣合いな剣なんてプレゼントしたんだ?」
普通女の子にはもっと可愛い物をプレゼントするはずだ。でも、当時の俺は何故か可愛さの欠片もない剣を姉さんにプレゼントしている。一体なんで俺はあんな物をプレゼントしたんだ?
「ううん、そんなことは覚えてなくていい……。祐一が私にプレゼントしたことさえ思い出してくれれば……」
「そう、ならいいんだけど……」
でもなぁ、姉さんは思い出さなくてもいいって言うけど、やっぱり気になる。何で剣なんかをプレゼントしたのか……。
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ゴトッ……!
「!?」
そんな時だった。シートの上に静かに置かれていた姉さんの弁当箱が僅かに動き出した気がした。
ゴトゴトゴトゴトゴト!!
最初は幻聴だった思っていた。でも、まるで弁当箱がダンスを踊っているかのように激しく動き出した。
「ま、まさかこいつはっ!?」
止まらぬ弁当箱の動きに、俺は戦慄を覚えた。これは間違いなく“魔物”の動きだ! クソッ、どうして今頃現れるんだよっ!!
「姉さん、急いでここは……!」
「……どうして……」
俺は自身の恐怖心を抑えてまで姉さんを逃がそうとした。でも、姉さんは逃げようとするどころか、剣を構えて対峙しようとした。
「ようやく祐一が私の前に帰って来たのに、どうして私の前に現れるのっ!?」
姉さんは構えた剣を掲げると、力一杯弁当箱目掛けて振りかざした。激しい一撃により粉砕する弁当箱。粉々になった弁当箱と共に姉さんが丹精込めて作った料理の数々も四散する。
ね、姉さん、一体どうしたんだよっ!? あれだけ一生懸命作ったお弁当を粉々にするなんて……。そんなに怒り狂うほどに魔物を憎んでるって言うのか……?
「消え失せろ! 私の中に巣食う魔物っ……! お前がいたら祐一がまた離れちゃう! ようやく帰って来た私の大切な祐一がまたいなくなっちゃう……! だから、消えろ! 消えろ消えろ消えろ! 消えてしまえっ!!」
姉さんは怒りに身を任せながらがむしゃらに剣を振り続ける。でも魔物の方もなかなか引き下がらず、四散した弁当箱の破片を宙に浮かべ、執拗に投げかけて来る。
「うあああああ〜〜!!」
そして姉さんは、その欠片一つ一つを徹底的に破砕しようと剣を振り回す。それはまるでさっきまでの和やかな空間の一つ一つを破壊しているみたいで、とても痛々しかった。
「はぁはぁはぁ……」
そして数分後、姉さんの執拗な攻撃に臆したのか、魔物の動きは止まった。そして姉さんは、魔物がいなくなり無残に破壊された弁当箱が広がる空間の中で、息を切らしながら虚ろな目で冬の寒空を見上げるように立ち尽くしていた。
「姉さん、一体魔物って何なんだよ……?」
姉さんをこれほどまでに乱させる魔物は一体何なんだと、俺は問いかけた。一体姉さんは何と戦っているのだと。
「何でもない……」
「何でもないって……こんなに被害が広がって何でもないってことないだろ!」
「何でもないって言ったら、何でもない!」
そう言うと、姉さんは俺に助けを求めるかのように、抱きついて来た。
「姉さん……」
「ゴメン、祐一。しばらくこのままでいさせて……。今祐一が離れていったら私……」
「ああ、分かったよ、姉さん……」
姉さんが何で魔物と戦っているのか分からない。でも、一つだけ分かることがある。それは、今の姉さんは俺を必要としていることだ。きっと今の姉さんは俺の支えがなければ立っていることさえままならないほど、精神的に追い詰められている。だから俺はそんな姉さんの力になるよう、姉さんを自分の身体で受け止め続けた。
「祐一、今のことは忘れて?」
「えっ?」
しばらく抱き続けたことで平常心を取り戻した姉さんは、さっきの事件を忘れて欲しいと俺に頼んで来た。
「これは祐一には関係のない、私自身の問題だから。魔物はきっと私が倒す、祐一には迷惑をかけない。だから、今日のことは忘れるって約束して、祐一」
「……ああ、分かったよ姉さん。約束するよ、今日のことはもう忘れるって」
「ありがとう祐一……。あともうちょっとこのままいさせて……。もう少しだけ、祐一の温もりを感じていたいから……」
本当は姉さんを手助けしてあげたい。でも、多分姉さんは何らかの事情で俺に魔物に関わって欲しくはないのだろう。それが俺の身を案じての行為か、何かを隠し通したいからなのかは分からない。でも、ここで約束しなかったら、姉さんはきっとまた平常心を失うことだろう。だから俺は姉さんの願いを聞き入れ、姉さんが満足するまで姉さんを抱き続けた……。
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放課後、姉さんと別れた俺は、伊吹先生指導の下、第二美術室で風子ちゃんと共に木細工の製作に励んでいた。しかし、頭の中は姉さんのことでいっぱいで、肝心の手の方はさっぱりと動かなかった。
せっかく姉さんとの距離が縮まったと思ったのに、魔物の件でまた距離が離れてしまった気がする。いや、少なくとも先輩って呼んでいた時よりは距離が縮んだはずだ。
(しかし、本当に魔物って何なんだ……?)
姉さんが言う魔物は、明らかに怨霊の類とは違う気がする。霊とは次元の違う異質な何か。一つだけ分かってるのは何故か俺を狙っているということだ。狙われている理由は分からない。けど、その魔物をどうにかしない限り、姉さんとの間にある溝は永遠に埋まらない気がする。
姉さんは魔物のことを忘れろって言ってたけど、そう考えるとどうにも忘れることはできないな。
「ヒトデさんっ、ヒトデさんっ♪」
悩み深き俺とは対照的に、風子ちゃんは軽快なノリで手を進めている。まったく、思春期が訪れていないお子様は実に羨ましいものだな。
「祐一君、手が進んでいないけど、何か悩み事があるのかしら?」
作業に集中せずに姉さんのことばかり考えていると、手の進まない自分を気遣うように伊吹先生が声をかけてきた。
「ええ、実は姉さんのことで……」
「姉さん?」
「あっ、いえっ……舞先輩のことでちょっと……!」
俺はつい恥ずかしい台詞を言ってしまったと思い、咄嗟に言葉を修正した。他人の前でも姉さん呼び続けようと思ったけど、前言撤回。姉さんの前ではともかく、他人の前では今まで通り舞先輩で通した方が良さそうだな。
「ふふっ、“姉さん”ね。その様子だと舞ちゃんと昔の関係に戻れたみたいね」
俺と姉さんが昔の関係に戻れたことに、伊吹先生は満面の笑みを浮かべた。ひょっとして伊吹先生は俺と姉さんの関係が上手くいっていないことを察していて、関係が修復することを願っていたのかもしれないな。
「ええ、そうだといいんですけど……」
話すべきかどうか一瞬迷ったけど、俺は意を決して話した。魔物のことを伊吹先生に。姉さんの担任であり10年前から知っている仲である伊吹先生なら、何かの力になってくれるだろうと思って。
「成程。つまり祐一君は、舞ちゃんの言う魔物とこの間現れた怨霊は別物だって言いたいのね?」
「はい。どちらも目には見えないモノには変わりありませんけど、何か性質が異なるみたいな」
「う〜〜ん。ごめんなさい。私も詳しくは分からないわ。確かに祐一君の言うように別種の存在の可能性もあるけど、そういうことは専門の方に任せた方が早いと思うわ」
「専門の方と言いますと、例の陰陽師ですか?」
「ええ。幸村先生の話によれば、来週頭にはいらっしゃるそうよ」
「来週か……」
つまり、来週になれば魔物の問題も解決するということか? 俺の手で何とかしたいところだけど、何の力もない俺は無力でしかないしな。ここは大人しくやむごとなき陰陽師の来訪を待ったほうが良さそうだな。
「でもね、問題が解決するまでは祐一君が舞ちゃんの力になってあげて」
「えっ!? 俺がですか?」
「ええ。祐一君、見た? 舞ちゃんの手?」
「ええはい。何か俺のために弁当を作ってきて、包帯で指をグルグルと。それが何か?」
「ありえないのよ」
「えっ!?」
「舞ちゃんが怪我をしたままなんて、本来はありえないのよ」
「確かに昔の先輩は怪我なんかしてなかったと思いますけど、しばらく料理していなかったら怪我の一つも仕方ないんじゃ」
まあ、確かに俺もブランクがあるとはいえ昔以上に下手になるわけないとは思ったけどな。
「ううん、そういう意味じゃなく、あの子が自分の傷を治さないのには何か理由があるんじゃないかと思って。きっと今の舞ちゃんは何かの理由で“力”を拒んでいる。だから、今の舞ちゃんは魔物の脅威には無力なはず」
「ちょっと待ってください、話がよく見えないんですけど、それってつまり……」
つまり、姉さんが應援團みたいな力を持っているということか? そういえば栞もそんなこと叫んでたな。潤と香里が、姉さんが應援團以上の力を持っているとか何とか盗み聞きしたって。
でも、俺の前ではそんな素振り見せないし、本当に姉さんは“力”を持っているんだろうか? そして力を持っていて、伊吹先生の言うように何らかの理由で力を拒んでいるのだろうか?
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「わっ! わっ! ゆ、指から血がぴゅーって出てるですっ!!」
そんな時だった。突然風子ちゃんが指から血が出たって騒ぎ出した。恐らく彫刻刀で誤って指を切ってしまったのだろう。
「大変! 今救急箱持って来るから、それまで指を押さえててふうちゃん!!」
妹の傷を見るや否や、伊吹先生は駆け足で保健室へと向かっていた。
「痛いですっ! 痛いですっ!」
ティッシュで押さえていながらも、痛みを訴え続ける風子ちゃん。自分も経験があるので分かるが、切り傷は擦り傷とは違い、小さな傷でも激しく痛むものだ。
「う〜う〜」
あまりの痛さに、風子ちゃんはとうとう泣き出してしまった。その姿を見て、俺は自然と胸が締め付けられるような気持ちになる。何だろう? 大した傷じゃないはずなのに、胸の動悸が高まり、不安な気持ちになって来る。
「大丈夫。痛くない、痛くないから……」
気付いた時、俺は風子ちゃんに近寄り、傷付いた左手の小指を優しく押さえて上げていた。少しでも風子ちゃんの痛みを、悲しみを和らげてあげようとして。
「ほらほら、泣かない。これくらいの傷で泣いてたら、大人になれないぞ? 大丈夫、お兄ちゃんがついてるから。だからもう涙を拭いて……」
俺は余った左手で頭をなでなでしてあげながら、風子ちゃんに優しい言葉で抱き上げた。こうすれば少しでも痛みが和らぐと思って。
「……」
すると、風子ちゃんは泣きやみ、平常心を取り戻してくれた。
「ふうちゃんお待たせ!」
しばらくすると、救急箱を抱えた伊吹先生が第二美術室に戻って来た。
「あっ、おねぇちゃん。何だか風子、もう痛くないですっ」
「そう、それは良かったわ。でも一応傷の手当はしなきゃ。怪我した指を見せて」
伊吹先生は風子ちゃんの痛みが鎮まったことに安堵しつつ、傷の手当をしようとした。
「えっ!? ふうちゃん、本当にこの指を怪我したの?」
しかし、いざ傷の手当をしようとした伊吹先生は驚きの声をあげた。
「はい。もう痛くないけど、確かにこの指です」
「本当に? だって……」
「どうかしたんですか、伊吹先生?」
一体伊吹先生が何に動揺しているのか気になり、興味本位で風子ちゃんの指を覗いてみる。
(えっ……!?)
そうしたら、俺自身も驚かざるを得なかった。確かに俺が優しく押さえていた指は、左手の小指だ。でも、その小指は血が止まったどころか、傷口一つすら見当たらなかった。
どういうことだ? もう傷口が塞がったということなのか? いや、いくら小さい切り傷とはいえ、こんなに早く完治するはずはない。
「! もしかして……。ねえ、祐一君、ひょっとしてふうちゃんの指を押さえてあげたりしていた?」
「ええ。あんまり痛そうにしていて見ていられなくなって」
「そう、そうなのね……! 思えば祐一君は春菊先生の甥っ子なんだから、できても不思議じゃないわね」
「何が言いたいんです、伊吹先生?」
伊吹先生は自己解決したようだけど、何だか俺は釈然としない。どうして風子ちゃんの傷が癒えたことと俺が春菊伯父さんの甥であることが関係するんだ?
「それわね。祐一君、あなたも春菊先生と同じ力を持っているってことよ」
「えっ!? それってもしかして……」
俺も潤達と同じ“蝦夷力”を持ってるってことか? そんなバカな。
「ううん。確か春菊先生も“他人の傷は治せない”って言ってたわ。ひょっとしたら祐一君の力は春菊先生以上かもしれないわね」
「ハハッ、そんなわけないですよ。仮に力で治ったとしても、それは風子ちゃんが能力者かもしれないってことで、俺が力を持ってることなんてあるわけないですよ、絶対に」
何故だか俺は、伊吹先生の仮説を必死に否定したくてしょうがなかった。俺が潤たちみたいな力を持っているわけないと。
「いいえ。私やふうちゃんのような普通の人間は、特別な訓練を受けない限り、力を使えるようにはならないのよ。いいえ、どんなに訓練したって他人の傷を治すなんてことは永遠に。それができるのは祐一君や舞ちゃんのような特別な血を……」
「いい加減にしてください! 俺をそんな超人みたいに扱わないでください!! 仮にそんな力があったらあの時だって……」
あの時? なんだあの時って? 俺は自分で言ってる言葉の意味が分からなかった。一体俺はあの時力があったらなんだって言いたいんだ……?
…第参拾六話完
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※後書き
今回から後半戦に突入ということで、徐々にキャラクターたちの関係が変化していきます。とりあえず今回は舞がデレモードを発動したということで。やっぱり、「病み」と「デレ」が交差するからこそヤンデレですよね(笑)。
ちなみに、改訂前でも舞は同じ日に祐一に対しデレモードになっております。Kanon傳がまだ投稿小説だった当時、この心境の変化を管理人に相談したんですよね。「祐一にデレる前は原作とイメージがかけ離れてはいないだろうか」と。そしたら「そういう心境の変化もいいんじゃない?」みたいなことを言われましたので、デレた舞を書いたという感じです。
まあ、改訂前はその一瞬だけであとは普通に戻りましたし、今回は今回ですぐに病みモードに戻りましたが(笑)。
あとは、改訂前は舞が魔物の正体を知らなかったのに対し、改訂後は自覚していることになっております。舞がヤンデレ化しているのは、この辺りが関係しているということで。 |
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