(さて、どうしたものか……)
屋上へと通じる階段の前で、俺の足は止まった。この先の踊り場ではきっと舞先輩と佐祐理さんが仲良く昼食を取ろうとしている。自分もまたそこに加わるかどうか悩み、俺の足は階段を登れずにいた。
あれから舞先輩はどうなったのだろう……? 栞を叱責し佐祐理さんの胸で泣き崩れた舞先輩は。もう気持ちは落ち着きいつものように昼食を取っているのだろうか、それともまだ傷心の渦中にいるのだろうか……?
もし平常心を取り戻したならそれに越したことはない。けどまだ、心の落ち着きを取り戻していなかったなら、俺はどうすればいい? 今すぐ舞先輩の元へ駆けつけ、栞のように心の支えになってやればいいのだろうか。
いや、正直今の俺に舞先輩の心の支えになれる自信はない。だって、俺は未だ舞先輩の心を掴み切れないでいる。普段の舞先輩はこの上なく冷静で物静かな女性だ。そして、團長や潤と対峙した時などは、強さと威厳さえ見せた。
けど、時折俺の前で見せる病的なまでの激しい感情の起伏は、一体何が要因となっているのだろう? 一体何が原因で舞先輩はあそこまで精神を病ませてしまうのだろう。その要因が分からない限り、永遠に舞先輩と心を通わせるのは不可能な気がしてならない。
「やあ、相沢君、奇遇だね」
そんな時だった。階段をじっと見つめたまま不動の俺に生徒会長の久瀬が声をかけてきた。
「あっ、こんにちはです会長」
正直、一番会いたくない奴に会ったと思った。最初学校で顔を合わせた時からどうも久瀬は好きになれない。けど、ここで徒に相手の機嫌を悪くしてはならないと、俺は作り笑顔で挨拶を返した。
「相沢君、実は君に頼みたいことがあるんだが」
開口一番、久瀬は頼みごとをして来た。こいつの口から出ることはロクでもないことだと思いつつ、一応俺は聞いてやることにした。
「転校して数日の君に頼むのは筋違いだと思うが、来週にでも生徒会に入ってくれないか?」
来た、やはりそうか。こいつは決して俺に友達意識や仲間意識を持とうとはしない。こいつが俺に求めてくるのは嘗ての生徒会長の息子という肩書きと、それによって得られる名声のみだ。久瀬の口から発せられた言葉が俺の予想の範疇を上回らないことに、俺は辟易しつつどう返答しようか悩んでいた。
「我等が雪の女王は心を変えられてしまった。何が原因でそうなったかは分からない。だが、悲しいことにこの学校の生徒の大半は、心変わりした女王に心を奪われてしまっている。
生徒達の良心を取り戻さなければ、この学校は滅亡の一途を辿る。僕は生徒会長としてこの悪しき流れを正常に戻す義務がある。しかし、僕一人の力では現状の流れを変えるのは難しい。そこで君の力を借りようと思っているんだ。頼む、相沢君! 僕の力になってくれ!!」
何て奴だ。学校の世論は明らかに反久瀬なのに、それは自分に原因がなく佐祐理さんが原因であり、しかも間違った流れだと言いたいのかっ!? この男はどこまで自分勝手な利己主義者なんだ。悪いがやはりお前と手を組むつもりは毛頭ない。ここは本人のためにもキッパリと断っておこう。
「久瀬会長、あなたの考えはよく分かりました。けど……」
「久瀬さん、祐一さんと一体何をお話されているのですか?」
毅然とした態度で久瀬の誘いを断ろうとした最中、俺たちの間に佐祐理さんが割って入ってきた。
「く、倉田さん……」
まさか佐祐理さんが間に入って来るとは夢にも思わなかったのだろう。久瀬は佐祐理さんが現れると同時に焦りを見せ始めた。
「久瀬さんには申し訳ありませんが、祐一さんは久瀬さん側には回らないと思います」
「何故、何故そう言い切れるのですか、倉田さん!」
「まず第一に祐一さんのお父様、相沢隆一氏は、新自由党の党員です。久瀬さん、あなたは仮に自分のお父上と異なる主義主張の政党に属することはできますか?」
「ぐっ……!」
佐祐理さんの言葉に図星を突かれたのか、久瀬は苦笑した顔で言葉を飲み込んだ。今までの言動から察するに、久瀬は親の地盤を何より大切にする典型的な2世議員の思考を持った人間のようだ。そんな人間が自分の親に反発するなど考えられない。久瀬の性格を読んだかのような佐祐理さんの言葉は、久瀬に反論する余地さえ与えなかった。
「そしてもう一つ。祐一さんはこの街に引っ越して来てからそう日が経たない内に、佐祐理の元を自ら訪れたんですよ」
「えっ……!? そ、そんな嘘だ! 相沢君は既に倉田さんの配下に加わっていたとでも言うんですかっ!?」
今まで沈黙を保っていた久瀬が堰を切ったように喋り出した。恐らく久瀬の中には例え親が佐祐理さんの派閥だったとしても、子までもが配下に属しているとは限らないという、一分の望みがあったのだろう。その望みさえもあっさりと絶たれ、久瀬は狼狽した。
「いいえ。配下と言うよりはもっと親しみのある関係ですよ」
そう言い、佐祐理さんは久瀬に見せ付けるかのように、俺に寄り添い、腕を組んだ。
「なっ!? そんなバカな。僕の倉田さんは決してそんなことをしないはずだ。嘘だ、嘘だと言ってくれ! なあ相沢君、君も嘘だと言ってくれ!!」
「嘘じゃない。俺と佐祐理さんは親しい間柄だ!」
久瀬は恐らく男女間のやましい関係を想像しているのだろう。実際は親しい先輩後輩の範疇を超えていないが、俺は敢えて佐祐理さんの“芝居”に付き合い、久瀬の妄想を煽った。
「そんな、そんな倉田さんが……。うああ〜〜!!」
そうして久瀬は非常な現実を認めたくないかのような錯乱した声で、教室棟の方へ姿を消していった。
「……祐一さん、久瀬さんはもういなくなりましたか……?」
「はい。ですからもう強がる必要はないですよ」
「お気付きでしたか……?」
「ええ。佐祐理さんが本心であんなことを言う人間でないことはよく知っていますから」
そう、心を乱した舞をあれだけ優しく介抱してあげた佐祐理さんが、他人の心を抉り出すような辛辣な言葉を投げ掛けるわけがないとの確信が俺にはあった。
「ありがとうございます。ではそんな祐一さんに少し甘えちゃってもいいですか?」
「えっ……!?」
「このまま佐祐理を支えて、いつもの踊り場へ連れてってくださいませんか? 今の佐祐理、誰かに支えてもらわないと倒れそうなので……」
「佐祐理さん……」
久瀬に敢えて辛く当たる行為が、それだけ心身にダメージを与えているのだろう。俺の腕にすがる佐祐理さんの顔は、今にでも倒れそうなくらい辛い表情を浮かべていた。
「佐祐理さん、一体久瀬との間に何があったのですか?」
久瀬が生徒総会の時捨て台詞のように吐いた、「中学時代に貴女と交わした約束を守りたかっただけなのに」という言葉。そしてどこか久瀬に対し後ろめたさを感じている佐祐理さん。一体中学時代の二人に何があったのだろう。
「そうですね。祐一さんには一度お話しておく必要があるかもしれませんね……。久瀬さんのこと、そして舞のことを……」
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第弐拾六話「倉田の系譜」
「佐祐理さん、今日舞先輩は?」
てっきり先に来ているものだと思っていたが、踊り場に舞先輩の姿はない。一体どうしたのだろう?
「舞は今日、学校を休みました」
「えっ!? 学校を休んだって」
「やはり、昨日のことが堪えたようです……」
「そうですか……」
佐祐理さんが解放してくれたお陰で舞先輩の気分はすぐれたかと思ったが、どうやらまだ完全に立ち直ってはいないようだ。それほどまでに、舞先輩にとって姉のことは触られて欲しくないことなのだろうか?
「さて、まずはどこから話したらいいでしょうか?」
佐祐理さんが持参してくれた弁当を食べ続けしばらくすると、佐祐理さんが問いかけて来た。
「そうですね。佐祐理さんが何で雪の女王と呼ばれていたのか? そのことに関して」
本当に、今の佐祐理さんからはそんな冷徹なイメージは抱かない。一体何故今とは180度違った評価を中学生当時は受けていたのだろうかと。
「そうですね。佐祐理が何故そう呼ばれるようになったかは、中学以前のことからお話しなければなりませんね……」
そう佐祐理さんはゆっくりと目を閉じながら、昔のことを語り始めた。
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「まずお話しなければならないのは、倉田家の系譜に関してですね」
開口一番佐祐理さんが語ったのは、倉田家の系譜に関してだった。何でも倉田家は嘗てこの東北を支配した奥州藤原氏の子孫だという。
「最も、子孫と言いましても直系のではありません。藤原4代の泰衡は頼朝に討たれ、そこで直系の血は途絶えましたから。佐祐理の家は、泰衡公の妹君の家系だと聞いています。
そして奥州藤原氏の流れを組む倉田家の積年の夢、それは奥州藤原氏の再興です」
「奥州藤原氏の再興?」
それはいずれ日本国から独立して国家を立ち上げるということなのだろうか?
「祐一さん、奥州藤原氏というのはどういった勢力だったと思います?」
「えっと、それは巨大な財力を背景にした独立国家でしょうかね?」
「いいえ、その認識は誤りですよ。藤原氏は都に様々な品を献上していただけではなく、官位まで授かっていました。そんな組織が果たして独立国家と言えるでしょうか?」
「う、う〜〜ん、それは……」
今まで奥州藤原氏は独立国家を築き上げていたと思っていたが、佐祐理さんの言葉に従えば、確かに独立国家という感じではない。
「ですが、完全な支配下にあったわけではありません。豪華な献上品の代価として、東北一帯の支配権を得ていました。国家の枠組みに取り込まれているものの、自治的な支配権は得ている。つまり、奥州藤原氏は経済的に中央から独立した地方自治体だったのですよ。倉田家が目指しているのは、ようは奥州藤原氏のような中央のお金に頼らない地方自治です」
成程。奥州藤原氏の復興なんて大風呂敷を広げているなと呆気に取られたが、蓋を開けてみれば地方自治か。最近中央の力に頼らない地方自治が叫ばれているのだから、地方自治を求めること自体は何ら大それたことではない。
「無論、佐祐理の父も地方自治を目指しつつ政治に携わっておりました。そんな父を佐祐理は尊敬しており、大きくなったら父の跡を継ぎたいと思っていました。
ただ、父は多少古い考え方の持ち主で、家を継がせるのは男児でなくてはならないと、佐祐理に跡を継がせる気はなく、倉田家は男児の誕生を心待ちにしておりました」
そして、佐祐理さんが4歳の時に、待望の男児が生まれたという。
「倉田の系譜を継ぐ人間として期待を背負って生まれた佐祐理の弟は、父の名から一文字取って一弥と名付けられました。そして佐祐理は、一弥を倉田の系譜を継ぐのに相応しい人間に育て上げるべく、厳しく接しました……」
本当は、少しくらい甘く接したかった。でも、甘えて育てれば父の跡継ぎとして相応しい人間にならないからと、敢えて辛く当たったとのことだった。
「いえ、それは建前かもしれませんね……。本当は自分がなりたくてもなれなかった父の跡継ぎとして育てられることが決められていた一弥が羨ましく、そして父の跡取りという自分の夢を一弥に叶えて欲しかったから、佐祐理は厳しく接したのかもしれません……」
いずれにせよ、自分はできた姉ではなかったと、佐祐理さんは自虐的に語った。
「そんなに自分を悲観することはないですよ。小さい頃はちょっとくらい厳しく躾けなきゃ節操のある人間になりませんし、第一今の佐祐理さんは俺や舞に優しく接しているのだから、一弥君も不幸せなんてことはないでしょう」
「はい、そうですね……。もし、生きていたら一弥は幸せになれたかもしれませんね……」
「えっ、それってどういう……」
「一弥は亡くなりました。佐祐理が11歳の時に……」
亡くなった、弟さんがっ!? 俺は軽率なことを佐祐理さんに言ってしまったとしばらく言葉が出なかった。
「一弥は元々身体の強い子ではなかったですが、まさかそんなに早く別れが来るとは夢にも思ってませんでした……」
こんなことならもっと優しく接すれば良かったと、佐祐理さんは後悔し続けたということだった。
「そして皮肉なことに、一弥が亡くなったことにより、佐祐理は夢にまで見た倉田の系譜を継ぐ資格を得ることができたのですよ……。でも、佐祐理は父の跡を継ぎたかったですけど、一弥を失ってまでも継ぎたいとは思いませんでした……」
弟を失った佐祐理さんは、辛く当たり死なせてしまったとの贖罪の意識に捕らわれ続けたという。
「一弥を失った後悔の念から佐祐理は悟りました。佐祐理が一弥に自分の夢を託してしまったから、一弥は死んでしまった。もう他人に夢を託してはいけない、倉田の系譜を継ぐのは佐祐理自身なんだと。
自分自身を父の跡継ぎとして立派な人間にしなければならない。そう強く思えば思うほど自意識過剰になり、いつの間にか自分自身のことを『佐祐理』と呼ぶようになってしまいました……」
ずっと違和感を抱いていた。何故佐祐理さんは自分のことを幼児のように自分の名で呼ぶのかを。それは佐祐理さんの罪の意識から生み出されたものだった。自分のせいで弟を死なせてしまった後悔の念が、佐祐理さんを佐祐理と呼ばせていたのか。
「そして、倉田の系譜を継ぐことを意識するあまり、政治的な功績を残すことに躍起になり、中学時代は雪の女王と揶揄されるほど生徒の意見を取り入れずに秩序を保つことを優先してしまいました……」
そんな佐祐理さんを誰も相手にせず、拒絶し続けたという。ただ一人を除いて……。
「そんな冷酷な佐祐理をただ一人慕ってくれたのが久瀬さんでした。佐祐理は誰にも自分の夢を託さないつもりでした。でも、佐祐理を慕ってくれる久瀬さんの姿に亡くなった一弥の姿を被らせてしまい、佐祐理はつい心を許してしまったのです……」
そして佐祐理さんは約束したという。「もし今後自分があらゆる政局において挫折した時は、代わりに久瀬さんが佐祐理の夢を叶えて欲しい」と。
「祐一さん。何があっても決して久瀬さんを責めないでください。久瀬さんはただ中学時代に佐祐理と交わした約束を忠実に守ろうとしているだけなのですから。
そして、今の佐祐理はそんな約束をしてしまったことを激しく後悔しています。佐祐理の心の弱さが生み出してしまった約束が、水高の多くの生徒を苦しませているのですから……。
だから、久瀬さんのことは佐祐理に任せてください。彼はまだ佐祐理を慕っているはずです。ですから、佐祐理が真剣に問い質せばきっと分かってくれると思います」
俺は今まで久瀬を嫌な奴だと思っていた。でも、佐祐理さんの言葉により認識を大いに改めなければならないようだ。久瀬は純粋な奴なんだと。どこまでも純粋に佐祐理さんを慕っているからこそ、他の生徒の反対を押し切ってまで、嘗ての佐祐理さんが行ったことを模倣しているのだ。
そして、そんな久瀬には誰の言葉も届かないことだろう。奴自身が誰よりも慕う佐祐理さんの言葉を除いて。
「でも、そんな佐祐理さんが何で今のような人に変わったんです?」
そう、何が経緯で雪の女王から鋳造の皇女と、正反対の評価を受けるまでの人間に変わったのかと。佐祐理さんほどの信念の強い人間が、他人に意見に感化されたくらいで心変わりするとは思えない。一体、どんな要因で佐祐理さんは変わったのだろう。
「はい。それこそが舞との出会いです」
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「舞先輩との出会い?」
「はい。舞と出会ったことにより、佐祐理の雪に閉ざされていた心は解き放たれたのです」
そして佐祐理さんは語る。舞との出会いから心変わりするまでを。
「舞と初めて会った、というよりは、初めて声をかけたのは一学期の終わり頃です」
「へぇ、結構長い付き合いなんですね」
「はい。もっとも、佐祐理は舞に友情を求めて声をかけたのではありません。佐祐理は、先生たちの会話などから舞がどういった人間なのか聞いていました。そして舞に興味を持ち声をかけたのです……」
それは舞が、春菊叔父さんに見定められた應援團のメンバーに相応しい人間だという話だったという。
「その話を聞いて佐祐理は舞に近付いたのです。将来的に舞と親しくしていれば佐祐理にとって大きな力となると思い……」
「えっ、そ、それって……」
「はい、先程祐一さんに話しかけていた久瀬さんとまったく同じです……。無論、舞はそんな佐祐理の心を察していたのでしょう。まったくと言っていいほど佐祐理の言葉に耳を傾けてくれませんでした」
それはそうだろう。誰だって愛情や友情ではなく利害を求めて近付く者を快くは思わないはずだ。でも、佐祐理さんがそんな利害で人に近付くような人だったとは、ちょっと想像がつかない。
「でも、今は誰よりも仲良しですよね? 何がキッカケで二人の距離は近付いたのですか」
「はい。それはある事件を境にです……」
それは秋も深まった10月頃だったという。学校に野犬が紛れ込んだのだそうだ。
「突然の脅威に多くの生徒が騒ぎ立てました。その光景を見て佐祐理は危機を回避すべく保健所に連絡を取ろうとしたのです。でも……」
「でも?」
「でも、佐祐理が保健所に連絡を入れようとした最中、一人の少女が野犬の前に姿を現したのです」
その少女こそが舞だったという。舞は野犬の前に立ちはだかるや否や、自らの腕を犬に差し出したとのことだった。
「自分の腕を差し出したって、なんでそんなことを!?」
「はい。佐祐理も何故舞がそんな行動に走ったか理解できませんでした。ですから、急いで舞の元へ駆けつけて問い質してみたんです。そしたら……」
「そしたら?」
「『お犬さんがお腹を空かしていたから』とのことでした」
「い、犬が、お腹を空いてたから!?」
犬がお腹を空いてたから自分の腕を差し出して空腹を収まらせたとでも言うのだろうか。仮に本当に犬が空腹だったとしても、何も腕を差し出すんじゃなく弁当か何かを差し出せばいいと言うのに。
「お弁当を持っていなかったから腕を差し出した。そう舞はサラッと言いのけました。そんな舞を佐祐理は不器用だと思いつつ、大切なことを教えられました」
「大切なこと?」
「はい。それは『他には他の事情があり、自分の尺度のみで他を測ってはいけない』ということです。佐祐理はお犬さんを危険な存在だと思い、保健所の方を呼ぼうと思いました。でも、それは人間側の勝手な都合で、当のお犬さんの方は単にお腹を空かして気が立っていただけ。人間だってお腹が空けば気が立つことはあるでしょう? でも、お腹が空いているという理由で人に危害までは加えません。だからこのお犬さんはお腹を空かしているだけで、こちらに害を加える気はないと。
それは人間に対しても同じこと。十人十色という言葉があるように、その人にはその人なりの主張やら事情がある。政治というものは多種多様の意見を汲み取り、できるだけ理想に近付ける作業が大切なのであり、決して頭ごなしに上から価値観を押し付けるものではないということを、舞の行動によって気付かされたのです……」
そうして舞から政治家を志す自分に欠けていたものを教えられ、佐祐理さんは考えを改めるようになったという。
「それからです。利害を抜きに舞と親しくなっていったのは。自分の力となる人間としてではなく、大事なことを教えてくれた大切な友達として。
そして、親しくなり舞の過去を訊いたことにより、ますます舞がかけがえのない存在になりました」
「その話は?」
「舞のお姉さんのこと。そして“弟”のことです……」
ある日、舞先輩は佐祐理さんに話したという。自分には年の離れた姉がいたこと、そしてその姉は自分が2歳の時にある事件により亡くなってしまったことを。
「その辺りの話は大方伊吹先生から聞きました」
「舞の親戚筋は既に絶え、両親も舞が生まれてすぐに死んだとのことでした。そんな舞は川澄家に養子として迎えられたとのことです……。
姉を亡くした悲しみが消えないまま血の繋がらないご両親の元で過ごすのは辛かったと言います。でも、そんな舞も幸せだった時があったと言ってました」
「幸せだった時?」
「はい。それは“弟”と過ごした日々だと言ってました。その子は自分とは血が繋がっていないけど、弟のように親しくしていたと。その子と出会ったことにより、舞は姉を失った悲しみを克服できたと話していました」
「そんなに親しくしていた人がいたんですね。でも、“だった”ということは?」
「はい。その子はある日を境に突然舞を『大嫌い』だと言い、舞の元へ姿を現さなくなったといいます。弟のように親しくしていた子に大嫌いだと言われた舞は、再び悲しみに包まれたと言います。
その話を聞いた時、舞も自分と同じく大切な弟を失って悲しみに打ちひしがれている。ああ、佐祐理と舞は似た者同士なんだと思い、ますます心を通わせるようになりました……」
同じ心の傷を持った者同士だからこそ、より強く結び付いた。成程、何で二人があそこまで仲良くしているか分かった気がする。
「そして舞はこうも言ってました。自分はこの“7年間”ずっと弟のように親しくしていたあの子が帰って来るのを待ち続けているって……」
えっ!? 7年間……? それってちょうど俺がこの街を訪れなかった期間と同じじゃないか……?
「その子について何か分かっていることはあるんですか?」
もう佐祐理さんに聞かなくても大体理解していた。でも、俺は自分で答えを出すのが怖くて、佐祐理さんに答えを求めた。
「その子は……春菊先生の甥っ子という話でした」
「そ、それってやっぱり……」
「はい。祐一さん、あなたです――」
…第弐拾六話完
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※後書き
| どうもお久し振りです。弐拾五話書いてから1月の下旬まで「アイドルマニアックス3」で販売した小説の執筆をしてましたので、大分間が空いてしまいました。
さて、今回は佐祐理さんの過去話が中心です。時系列的にはKanon傳の拾四話なのですが、内容的には弐拾六話の話も含まれています。偶然とはいえ、久々に旧版と改訂版の話数が合いましたね。
次回は名雪中心になると思います。名雪は今まで影が薄かった出ですけど、後半に進むに連れて色んな意味で存在感が増してくるので、楽しみにしていてください。 |
弐拾七話へ
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