胆沢城とその歴史
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胆沢城跡は、大正11年(1922)10月、内務省告示270号で国史跡第1号に指定されました。
古代東北を統治した胆沢城
アテルイの時代、時の権力者たちは、東北地方を支配しようと、度々軍勢を送り蝦夷(東北地方で暮らす人々)の軍勢と壮絶な戦いを繰り広げていました。
やがて、征夷大将軍坂上田村麻呂によって胆沢の蝦夷は平定され、その後、延暦21年(802)造陸奥国胆沢城使の坂上田村麻呂によって胆沢城が造営されました。以後、胆沢の地は律令国家(天皇を中心とした国家)による支配の時代を迎えます。
胆沢城は、重要な戦略拠点として位置づけられ、大同3年(808)陸奥国府多賀城から鎮守府が移され「鎮守府胆沢城」が成立後、城司に鎮官が充てられるとともに関東地方などから、大勢の人々が移り住んだといわれています。
鎮守府胆沢城は、10世紀後半まで陸奥国北部(岩手県中・南部)を統治支配する拠点として、およそ150年間にわたり蝦夷の管理と軍事部門の役割を担っていたといわれています。
この胆沢城は、胆沢川扇状地の北東端に位置し、北上川と胆沢川の合流点付近の右岸上に造られ、北上川を利用して運ばれた物資を九蔵川から城内に運んだという、物資の荷揚げなどを管理する役所跡も見つかっています。
「俘饗」
貞観18年(876)の太政官府に、鎮守府が正月と5月の年2回「俘饗」を行っていたという興味深い記事があります。これは朝廷の威信を蝦夷に見せつける一方で、豪華な肉料理を並べた盛大な宴会でもてなすものです。
「漆紙文書」
発掘調査では、木簡や文字が書かれた土器のほか、漆紙文書が出土しています。漆の乾燥を防ぐため容器にふたをした反故紙に漆がしみ込んで、役所の公文書が偶然残ったものが「漆紙文書」です。
「方八丁」
胆沢城跡の一帯は「方八丁」と呼ばれ、その痕跡が市道八幡線として方格状に残っています。この呼称は、江戸時代に書かれた「八幡村風土記御用書出」に「方八丁」として4辺の寸法と築城者が坂上田村麻呂だということを記しています。
「城の規模と構造」
胆沢城は、1辺は675メートルの築地土塀で区画された外郭線と、その中に1辺90メートルの大垣で方形に区画される政庁域で構成されています。
胆沢城内のほぼ中央を東西方向に流れる九蔵川の関係で、政庁域は外郭内中央の南寄りに配置されています。政庁内部には東西棟の正殿が、その前面左右に南北棟の脇殿がそれぞれ配置され、コの字状の空間を呈しています。
「外郭(築地塀)」
外郭線は築地土塀がめぐり、その内と外側には溝が掘られています。これまでの調査で外郭線の北・南中央部には門が取り付き、東・西・南辺の各所には築地土塀を跨ぐ形で櫓が設置されているのが判明しています。
「外郭南門」
外郭南門は12脚門で、東北最大の規模をもつ瓦葺きの建物であったといわれ、多賀城にもない南正面の大規模な2階建ての外郭南門は、坂上田村麻呂が、蝦夷管理の最前線に作り出した演出とみられています。
硯と刀子、木簡
古代の役人は「刀筆の吏」とも言われ、文書を書くことが仕事であった。刀子は、木簡の文字を削る「消しゴム」としても使われました。
漆紙文書(複製品)
宮城県北の小田軍団から胆沢城に派遣される兵士の欠勤届。伴部廣根、宗何部刀良麿の2人が流行病でたおれたことが書かれています。
坂上田村麻呂
坂上田村麻呂は、天平宝字2年(758)に生まれた平安時代初期の武官です。胆沢城を造営した田村麻呂は、アテルイ・モレとの和解を成し遂げ一緒に朝廷に赴いて、「アテルイ・モレの助命と登用を嘆願した」と、続日本紀に記されています。
田村麻呂は、およそ身長180cm、体重120kgの巨漢といわれ、赤ら顔に黄金色のあごひげという風貌で、怒れば猛獣もたちまち倒れ、笑えば幼子もすぐなついたということが「群書類従」に記されています。
延暦17年(798)に京都の清水寺を創建したと伝えられる田村麻呂は、優れた武人として尊崇され、文の菅原道真と武の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされています。
「官衙」
城内には、政庁域を囲むように官衙が設けられ、儀式、祭式を司る官衙、物資の集散を担う官衙、食料を供給する官衙などが明らかになっています。
胆沢城の屋根にふかれた軒瓦
江刺区稲瀬の瀬谷子古窯跡でつくられました。
高山掃部長者とその伝説
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高山掃部長者物語のあらすじ
掃部長者は、数多くの屋形や米倉庫を土塁と堀で囲んだ広大な邸宅を構え、何不自由のない豊かな生活を営んでいました。
長者は、領民を愛する慈悲深い人柄でしたが、反面その妻は強欲で情けのない女でした。妻は強欲のあまり顔まで恐ろしく、あっと云う間に角が生え、大蛇となって屋敷に放火し。大堤に身を隠してしまいました。
大蛇となった妻は、毎年美しい娘を生贄として差し出すよう脅かして村人を困らせます、生贄の身替りとして肥前(九州)から買われてきた小夜姫は、あわや大蛇に一吞みにされようとした時、一心にお経を唱えたところ、その法力によって大蛇の姿は消え、妻は元の姿に戻ったと語られています。
胆江地方には、この伝説にまつわる場所が数多くあり、それらの一部は現在も地名として知られています。
掃部長者が安置した地蔵菩薩(車堂)
正元1年(1259)の大飢饉で死んだ人々にも仏果を得られるようにと、掃部長者が六道輪廻の宝塔を建て、六道能化の地蔵菩薩を安置したところと伝えられています。
大蛇の牙
この牙は、村人が病を患った時に削り、煎じて飲むと治ったことからしだいに短くなったと言われています。
掃部長者物語 紙芝居
- 昔むかし、上幅というところがあって、そこに高山かもんと言う、それはそれは、たいそうな長者様が居たんだど。なにしろ、倉の数なら48もあり、使用人も365人もいたというから、とてつもなく大きな長者様だったど。
- ところが、長者様の奥様がえらいよくばりなんで、使用人たちを長い柱を枕にねかせ、夜が明けるか明けないうちに柱をたたいて起こし、朝から晩まで働かせたんだど。
- ある年のこと、天気が悪く米がとれず、腹がへって死ぬ人さえ出たときに、人のいい長者さまが、倉の中から、米を出して、こまった人たちを助けたら、「あんだ! なんともったいないことを」と奥様はかんかんにおこったそうだ。
- あまり、わめいたものだから、のどがかわいた奥様は、井戸に行って水を飲んだ。ところが、この井戸の水に写った顔は、口は耳までさけて、頭には角が生えた大蛇のすがたになっていたんだとさ。
- もう狂った奥様は、やしきに火をつけ、向かいの止々井沼にザンブと入ってしまったそうだ。
- それからというもの、この大蛇は、ときどき人里に現れては馬や若い娘をさらっていくようになり、里人たちは恐ろしくて夜も眠れなくなってしまったんだと。そしてついに大蛇は、「牛や馬、娘をさらわれたくなかったら、毎年8月15日の夜に、15才になる娘を差し出せ」と言ったそうだ。
- 里の人たちは、小夜姫という若い娘を買ってきて、生けにえに差し出すことにした。8月15日の夜、4本の柱を立て、やぐらを作り、娘を差し出す準備が出来た。小夜姫は、化粧坂のわき水で身じたくを整え、肌身はなさず持っていた金色の如来様を、髪の中に入れ、やぐらの上にすわり大蛇が現れるのを待ったどさ。
- すると、急にイナズマが光り、雷とともに雨風が吹きまくり、みるみるうちに大蛇が現れた。大蛇は、小夜姫をみつけると牙をむきだし、口を大きく開けて一気に小夜姫を飲み込もうどしたど。
- その時、小夜姫は、おそろしさに負けず、一心におきょうをとなえ、きょうもんを大蛇に投げつけると、大蛇の角はバラバラと落ち、大蛇は元の長者の奥様にもどったんだと。
- 大蛇を退治した小夜姫は、生まれこきょうの松浦の国へ帰って行ったが、その時持ってきた化粧したときのわき水を目の見えないお母さんの目につけると、不思議なことにお母さんの目がパァと開いたとさ。
これは、「佐倉河の子どもたちが、平成10年に作成した紙芝居です。」