岩手県奥州市水沢区 佐倉河地区センター

ガイドマップ佐倉河地区のガイドマップをご紹介します。

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1.御田神古墳おだのかみこふん

古墳(7世紀)の墳丘ふんきゅうの上に、後世、御田神様が祭られ現在に至っています。墳丘の中から鉄刀の破片などが出土しています。明治11年に来水した蓑虫山人みのむしさんじんの絵日記の中に「鉄刀2振、勾玉まがたま9個、玉類」があり、その関連が伺われます。

2.今泉遺跡いまいずみいせき

16棟の竪穴住居跡たてあなじゅうきょあと(奈良時代)と3棟の竪穴住居跡(平安時代)が発見されました。住居跡から豊富に土師器はじき(カメ、コシキなど)が出土し、稲作農耕の生活様式を示しており、文様もんようのある土師器から北方文化との交流も伺われます。

3.膳性遺跡ぜんしょういせき

古墳こふん時代後期(6〜7世紀)から奈良・平安(8〜9世紀)にまたがる集落あとです。住居跡は大型と小型で集落を形成し、出土品に「圭頭太刀柄頭けいとうたちつかがしら」、大阪の竃製かませい須恵器すえきが注目され、関西との広範こうはんな交流があったことを物語っています。

4.熊野神社くまのじんじゃ

景行天皇けいこうてんのう40年(109年)に、日本武尊やまとたけるのみこと東夷とうい征伐せいばつしてこの地にいたり、国家安全を祈り伊弉諾尊いざなぎのみことを祭り、嘉祥かしょう3年(850年)慈覚じかく大師が神号しんごうを「熊野」と改めたと伝えられています。

5.稲荷山梅泉寺いなりさんばんせんじ

寛文かんぶん9年(1669)永徳寺十七世(緯庵金重和尚いあんきんじゅうおしょう)により開山。曹洞宗そうとうしゅう本尊ほんぞん釈迦如来木仏坐像しゃかにょらいきぶつざぞう

6.胡瓜天王古墳きゅうりてんのうこふん

古墳(7世紀)の墳丘ふんきゅうの上に、後世、胡瓜天王がまつられ現在に至っています。この胡瓜天王から古墳名がつけられました。胡瓜天王は悪病や厄払やくばらいの神として祭られてきました。

7.アケボノゾウの足跡化石あしあとかせき

平成3年(1991年)、胆沢川の川原で、ゾウの足あとなどの化石が発見されました。調査の結果、この化石は、約100万年前に生息していたアケボノゾウなどの足跡だということがわかりました。

8.高山遺跡たかやまいせき

県内最古で古墳時代前期の隅丸方形すみまるほうけい竪穴住居跡たてあなじゅうきょあと1棟が発見されました。床面の南東すみ貯蔵穴ちょぞうけつがあり、器台きだい布留式土師器ふるしきはじきの出土は畿内きない土器の目安でもあり、列島の北と西の共通性から新たな時代の到来とうらいを知ることができます。

9.伊勢神社いせじんじゃ

景行けいこう天皇40年(109)に日本武尊やまとたけるのみこと東夷とうい征伐せいばつしてこの地を出発の節、大日孁尊おおひるめのみこと天照大神あまてらすおおかみ)を祭り、嘉祥かしょう年中(850)に慈覚大師じかくだいしが神号を「伊勢いせ」としたと伝えられています。

10.中半入遺跡なかはんにゅういせき半入豪族屋敷はんにゅうごうぞくやしき

古墳こふん時代の前期から後期の水田あとや100とうを越える住居跡が発見されました。
さらに、大きなほり土塁どるいもん等を備え、往時おうじの豪族屋敷の特徴とくちょうをよく残している屋敷も検出されました。(半入豪族屋敷:昭和56年市指定文化財)

11.西大畑遺跡にしおおばたけいせき

古墳時代前期からある集落ですが、中期の大型正方形や小型長方形の竪穴たてあな住居が検出されています。カマドはついていません。これらの遺跡いせきは、水稲耕作すいとうこうさくに生産基盤きばんを置きながら形成発展してきた集落であることを物語っています。

12.珍重山常楽寺ちんちょうざんじょうらくじ

永禄えいろく元年(1558)永徳寺11世縁室順良和尚えんしつじゅんりょうおしょうにより開山。曹洞宗そうとうしゅう。本尊は釈迦如来木仏坐像しゃかにょらいきぶつざぞう

13.道祖神社どうそじんじゃ

旧栃木村境の街道沿かいどうぞいに「さいの神(さいの神)」として村内への邪霊じゃれい侵入しんにゅうを防ぎ、道行く人々の守護しゅごと村内の災難さいなんや争いを防ぐ神としてまつられてきました。
安永あんえい年間(1772〜1781年)には、すでに村鎮守むらちんじゅとして崇敬すうけいされております。

14.三代清水さんだいしみず

胆沢城いさわじょう造営ぞうえいした坂上田村麻呂や、前九年合戦ぜんくねんかっせん源頼義みなもとのよりよし源義家みなもとのよしいえの三代にわたり飲用された清水と伝えられています。

15.鎮守府八幡宮ちんじゅふはちまんぐう

桓武天皇かんむてんのうの延暦20年(801)に坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが軍勝を祈って九州豊前国宇佐八幡ぶぜんこくうさはちまん神霊しんれいを受けて、大同だいどう2年(807)に勧請かんじょうされたものです。鎮守府八幡宮の本殿ほんでん拝殿はいでんは市指定の有形文化財です。

16.牛頭天王社ごずてんのうしゃ

薬師如来やくしにょらい垂迹すいじゃくともいわれ、除疫神じょえきしんとして、頭上に牛のかしらを持つ忿怒相ふんどそうに表されているように、この地域の疫病えきびょうを除く神としてまつられています。

17.奥州市埋蔵文化財調査まいぞうぶんかざいちょうさセンター

平成5年に開館。展示と調査部門を主体に、市内で出土の遺物いぶつ収蔵しゅうぞうしています。特に、胆沢城と古代東北蝦夷えみしの世界をテーマにした復元模型もけいの展示や映像えいぞうは一見の価値があります。

18.薬師堂やくしどう

慈覚大師じかくたいし開山かいざん、伯済寺の別当所となっています。14世紀末ごろ、柏山氏が、焼失した伯済寺(明治初年に廃寺)を再興のおり、寺の領内に薬師堂を建立こんりゅうしたものです。本尊ほんぞんは薬師如来坐像にょらいざぞう大乗仏教だじょうぶっきょうによる病気平癒へいゆの仏です。

19.飯綱権現社いいづなごんげんしゃ

長野県飯綱山に総社が鎮座ちんざする山岳信仰さんがくしんこうです。白狐しろきつねに乗った烏天狗からすてんぐがご神体しんたいです。1560年ごろ(永禄年間)伊藤金市初祖しょそ落武者おちむしゃとなり、飯綱権現を帯びてこの地に辿たどり着いたものと伝えられています。

20.五十瀬神社いそせじんじゃ

下河原の村社であり、葛西晴信公勧請かさいはるのぶこうかんじょうと言われています。祭神は天照皇大神あまてらすこうたいじん。祭日は9月16日です。

21.光明山安養寺こうみょうざんあんようじ

嘉元2年(1302)頃、天台宗のお寺として建立こんりゅうされ、文明5年(1473)に曹洞宗そうとうしゅう寺院として開かれました。本尊ほんぞん釈迦牟尼佛しゃかむにぶつ。寺宝として大般若経だいはんにゃきょう600かんがあります。

22.高山掃部長者屋敷跡たかやまかもんちょうじゃやしきあと

長者は、「高山」というこの地に住んでいたことから、高山掃部長者と言われました。広範囲こうはんいの屋敷があったとされますが、現在は水田の中に屋敷の中心と見られるところのみ残っています。伝承地でんしょうちからは、現在でも炭化米たんかまいが検出されています。

23.高山稲荷神社たかやまいなりじんじゃ

この神社は、鎮守伴官大野朝臣横刀ちんじゅはんがんおおのあそんたちにより、天平勝宝てんぴょうしょうほう2年(750)に勧請かんじょうされたものです。
往事には、「胆沢宗宮高山稲荷神社」と称したと伝えられています。

24.見晴観音堂みはらしかんのんどう

胆沢の人々が、小夜姫さよひめ難儀なんぎはらたまえといのった加護祈願所かごきがんじょと伝えられています。また、小夜姫さよひめが、この地から見分森を望んだとの言い伝えもあります。(観音像の胎内たいないには元禄時代の修理めいなどが検出されています。)

25.面塚遺跡おもてづかいせき

4棟の竪穴住居跡たてあなじゅうきょあとが発見されています。住居は、1辺4.5〜5mの方形で、煙道えんどうのないカマドが付設され、岩手県で初めてカマドが出現する時期のものです。出土遺物いぶつには、丸底と平底のつきがあり、これらに赤彩せきさいほどこされていました。

26.まつとストリートシンボル

この地は、戦中戦後を通じて学校教育の場として利用され、時代の変遷へんせんてきた松があり、松堂の地名のおこりとも考えられています。平成4年5月には、この松の隣にストリートシンボル「悠久ゆうきゅう」が設置されました。

27.毘沙門堂びしゃもんどう

延暦えんりゃく14年(795年)坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろが、この地方の蝦夷首領えみししゅりょう征伐せいばつしてここに埋葬まいそうし、自分のまげの中にいれて奉持ほうじしてきた毘沙門天びしゃもんてん本尊ほんぞんとして供養くようの堂を建立こんりゅうしたと伝えられています。
明治以降、境内けいだいが小学校敷地しきちになったので現在地になりました。

28.竃石三宝荒神社かまいしさんぽうこうじんじゃ

正元己未年しょうげんつちのとひつじどし(1259)中の大飢饉だいききんの折、掃部長者かもんちょうじゃかまかゆいて土地の人びとにほどこしました。その慈悲じひを喜び竃跡かまあと沖津神おきつかみまつったと伝えられています。現在の神社は、昭和10年に村道を改修したときに移転し、現鞘堂げんさやどうを新築したものです。

29.仙人宮せんにんぐう

旧下河原村の鎮守ちんじゅの神様で仙人権現ごんげんとも言われます。本殿ほんでんは文化元年(1804)、拝殿はいでん嘉永かえい4年(1851)の建築と言われます。祭日は9月9日です。