真城ゆかりの人物


文化人類学者・国際交流先達の人 キース・ブラウン
米国・ピッツバーグ大学名誉教授
(1933(昭和8)年2月21日生まれ~)


だれもが親しみのわく学者「ようこそ ブラウンさん」
1961年に水沢市真城(現奥州市水沢区真城)へ
ブラウンさんは、日本の農村文化研究のため1961(昭和36)年10月、当時の水沢市(現奥州市水沢区)真城中屋敷地区に家族と共に住まいを構え、調査研究に取り組み出しました。
以来、今もなお毎年のように水沢を訪れ当地方における農村生活の変還ぶりなどの調査研究と市民との幅広い交流に余念がありません。しかも毎回のように真城中屋敷地区へ足を運び、近隣の高根、栗林地区の皆さんとの交流を欠かさない律義で気さくな学者でもあります。
現在では、奥州市内にも外国人在住者が増えていますが、1960年代中半に自らの学術分野の研究調査に燃え、純農村に家族共々の来日は珍しかったのです。 2011(平成23)年7月には、ブラウンさん来水50年を記念して親交ある人達が「来奥50年を祝う会(会長・後藤晨 元水沢市長)を結成。記念誌「一期一会」の発刊、多くの関係者が参加しての「お祝い会」も開催されました。


ブラウン教授の来奥50年をお祝いする会で記念講演するブラウンさん
(2011年7月31日)


及川久多さん方 日本間での家族生活
〝縁結び〟役は及川和彦さん
ブラウンさんは、ピッツバーグ大学の学生時代にルースさんと結婚。28歳の時、ルース夫人(27歳)、長男ゴーティさん(4歳)、二男ゲイリーさん(3歳)、長女デボラさん(生後9ヵ月)の5人で日本の土を初めて踏みました。 日本農村文化の研究先の選定に当たっては、東京大学関係者との協議で九州・熊本県、北陸・富山県、東北・岩手県の3地点を挙げ、精査の結果、水沢市が選ばれました。
当時、水沢ユネスコ協会会長でもありました社会教育主事及川和彦さん(2008年2月死去)の配慮で、及川さんの実家でもある真城中屋敷の当時国鉄職員だった義兄・及川久多さん・テル子さん宅にお世話になっての研究調査がスタートしました。
家族5人は、二階8畳間と6畳間での日常生活。布団を畳の上に敷いての寝起き、台所、トイレ、お風呂などは久多さんの家族(5人)と共用。食料品を含む買い物は、ルース夫人が東北本線・陸中折居駅から列車で水沢市街地へ出かけ、1週間分を買い込んで来るという生活リズムでした。


農作業などにも率先して参加
水沢地方の当時の農作業は、ほとんど機械化が進んでおらず肉体労働が強いられていました。
ブラウンさんは真城中屋敷地区での農作業や各種行事には欠かさず参加。昔ながらの集団(結い)の田植え、稲刈りなどでは長身を二つに折っての重労働に汗を流しました。農作業うち上げの宴会「さなぶり」では、決して強くないお酒も酌み交わすなど地区民との交流も深めました。
ルース夫人も家庭的な雰囲気の人で、テル子さんとのコンビもよろしく、1週間に1回の割でアメリカ式献立、日本式献立の料理を楽しみ合いました。
こうした研究生活が1年余続き、ブラウンさん一家は、ひとまず帰国しました。

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当時の馬による代掻きの様子             田植えの様子
 
「青い目のお人形さん」で人気


デボラちゃん「日高火防祭」に出演
ブラウンさん一家は1970(昭和45)年7月、2度目の来日・来水。今度は水沢町内の民家に約1年2ヵ月間借家住い。水沢地方の「農村」と「まち」との差異や相似など「大町」を拠点に調査研究を実施。江戸時代の水沢城主などを支えていた商人の町の歴史研究に取り組まれました。
こうしたなか、ルース夫人は町内の婦人たちの要請に応え、「英会話教室」を開設するなどその立ち居振る舞いぶりが大人気。一方、長女のデボラちゃんは、「日高火防祭」のお人形さんとして出演。見事な小太鼓打ちの姿が「青い目のお人形さん」と話題になりました。


「真城村誌」が研究の貴重な史料に
修士論文「真城」出版、叙勲の栄誉も
ブラウンさんの初来日が実現した7年前の1954(昭和29)年、当時胆沢郡真城村が水沢市制施行実現に伴って「村」の名称が消えることになりました。
これに伴って、それまでの真城村の歴史を記録に残そうと及川和彦さんが中心となって「真城村誌」が、この年の3月に発刊されました。同村誌は、ブラウンさんに日本農村の一地域の包括的な史料・文献として大きなインパクトを与えました。
ブラウンさんは1979(昭和54)年末に、「真城」を中心とする水沢地方の風俗、習慣、歴史などを調査研究した論文「真城」を英文で発刊。アメリカ国内の関係者からも大きな反響を呼びました。
こうした功績をたたえ、1995(平成7)年4月、日本政府から「勲三等瑞宝章」の勲章が贈られました。
これに伴って、当然ながら真城中屋敷地区などでは来水を機に祝賀の集いを開きました。

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真城村誌          研究論文 英文「SHINO=真城」
日本人に勝る義理・人情の人


「真城は第二のふるさとです」
ブラウンさんは、真城中屋敷地区を訪れる際に、おみやげに必ず日本酒などを持参、時間があれば宴会にも加わり、「私たち家族の第二のふるさとは真城です」など流暢な日本語で話に花を咲かせる気配りの人でもありました。
研究調査など「移動の足」はほとんど自転車。行き交う人たちへ笑顔たっぷりの「こんにちは・・・」のあいさつを欠かさない。こうした律義ぶりを多くの人たちは「ブラウンさんは日本人以上に律義の人でなじみやすい」と評判も高かったです。
「ブラウンさん来日の親」とも言える及川和彦さんが亡くなられた2008(平成20)年2月の葬儀には、ルース夫人の「私たちがお世話になった恩人でしょう」のすすめにも押されて水沢へ駆けつけ、「お別れのことば」を述べられました。
「深く悲しんでいます。友情と温かい心などプレゼントを余りあるほどいただきました。あの日あの時の思い出話を一緒に語り合える日がくるでしょう。その日まで悲しみを耐えていきます・・・」。
2011(平成23)年3月11日発生の「東日本大震災」発生の際は、真城中屋敷地区の渡辺陽一さん方やブラウンさんが来水の際の事務局を担当しているアスピア(奥州市水沢区吉小路)などに「みなさん大丈夫だったでしょうか。心配しています」のお見舞いメッセージも送ってきました。
ブラウンさんが真城に初来日当時、県立水沢高校で知り合い、以来今なお交流を深めておられる元中学校英語教諭・前奥州市教育委員長の高橋清融さん(72)=奥州市胆沢区小山道場=は「ブラウンが大好きなことばは、来奥50年を記念して発刊した記念誌のタイトル『一期一会(Once in a Lifetime)』でした。今なお積み上げておられる数々の実績は、我が奥州市にとって国際交流先達の人でもあります。それにしても亡くなられた及川家の和彦さん、そして久多さん・テル子さん夫妻には感謝です」と話しておられます。


● 問い合わせ先 ブラウン教授をよく知る 吉田英男 
電話 0197-26-4584 (胆江日日新聞社 社友・編集特別顧問 )