エイサーとは

「エイサー」の起源

1603年京都から琉球に渡った浄土宗の僧侶、袋中上人(たいちゅうしょうにん)が仏教や念仏踊りを普及その念仏踊りが、沖縄の各地方に残る「クディー」「シヌグ」などの踊りとうまく溶け合ってもたらした念仏踊りがやがて、地方の人達を喜ばせ盆踊りに発展して、それが「エイサー」または「七月エイサー」と言われるようになった。
沖縄本島中部のコザ市(今の沖縄市)が、昭和三十年からエイサーコンクールを主催するようになってからは、各字(集落)の青年団どうしが字の名誉をかけ、技と華やかさを競い合い、今日の新しいスタイルのエイサーへと進化してきたとも言えます。
袋中上人は現在の福島県いわき市に生まれ、当地には現在も『じゃんがら念仏踊り』が継承されている。

「エイサー」の伝統

字の「神アシャギ」(鎮守の神の拝殿)前の広場に集まり歌や三線、太鼓の音も賑やかに「神アシャギ」の前「アシビナー(遊び庭)」で拝礼をした後、円陣を作り踊りを神々に奉納した。その後、字内の村頭(村の頭役)から各家を順番に一軒一軒回り、各家の庭で円陣を作り、その家の人達の無病息災と家庭の繁栄を祝福した 演ずる歌や踊りは、その家の老夫人や主婦を祝福する歌を即興に歌い踊り、三線の地謡(地方)は次から次へと歌を変えて演奏すると、それに応ずる踊り手は「エイサー、エイサー、エイサー、ヒヤルガ、エイサー、スリ、サーサー、スリ」と”はやし”ながら踊り始めた。
このはやしから出た言葉「エイサー」が沖縄全島の盆踊りをエイサーまたは七月エイサーと言うようになった。
現在の沖縄でもその伝統が受け継がれ、盆の夜になると若者達が集まり各地域でエイサーが観られます。

「エイサー」の踊り衣装

エイサーの衣装は特別なものではなく、普段着のさっぱりした紺地絣や芭蕉布の着物を着け頭には紫、青白のサージ(ハチマキ)を巻き、男女とも短い着物で踊る。
沖縄本島中部東海岸側の勝連村、与那城村では「念仏踊り」の名残である白衣の上に黒衣を着け、袖の中に白い布を通してたすきがけをする「雲水僧」の姿で踊る。
近年は琉球舞踊の衣装まがいのものや雑踊「鳩間節」の衣装を真似て、派手な上衣に白いズボン、白黒のきゃはんに白足袋か、白いズックを履いている。
エイサーの「間の者」(チョンダラー)を演ずる男は短い芭蕉衣にワラのハチマキ、尻をはし折って赤いフンドシを長く垂らし、おどけた格好で踊る。
女性の衣装もそろいの紺地絣をすそ長に着け、紫のハチマキ、赤や紫の帯びを前結びにして白足袋にぞうりを履く中には本土の盆踊りのように揃いのゆかた姿もみられる。

「エイサー」の中の大和芸

エイサーの歌や踊りに「チョンダラー」や「ウマメシャー」などの”門付芸”が取り入られている。チョンダラ−の正式名称は、京太郎という(京都の太郎)この芸を伝えたのは、京都の「くぐつ師」慶長年間の初期というから、17世紀の前半で、どのような経路で琉球國にさすらって来たのか厳しい薩摩の密命で琉球國にやって来たのか、全ては謎に包まれている。チョンダラ−の芸能は、今も沖縄市の泡瀬と宜野座村宜野座に民俗芸能として伝えられている。