偶像再誕序章・啓示


「クソッ! 何故だ! 何故みんな私から離れていく!?」
 夜の繁華街を酩酊状態で彷徨う一人の男。漆黒のスーツに身を包んだその男は、酷く荒れていた。
 彼の名は黒井崇男。落ちぶれ果てた姿からは想像もつかないが、彼は961プロダクションという芸能事務所の社長である。
 嘗て黒井は圧倒的な財力と隅々にまで行き渡ったコネクションにより、芸能界に確固たる地位を築き上げていた。
 だが、事務所のトップアイドルである四条貴音と我那覇響の、765プロへの移籍。その後暴露された数々のスキャンダルにより、事務所の社会的信頼は大きく失墜した。
 二大アイドルの移籍が呼び水となり、他の所属アイドルや優秀な社員も、次々と彼の元を離れていった。
あらゆる人望を失った彼の手元に残ったのは、数億に及ぶ金のみであった。
「この金を使って、私はまた伸し上がってやる!!」
 屈辱に塗れた顔で財布を握り締め、黒井は再起を誓った。
 彼にとっての最優先事項は金を稼ぐこと。手元にある金で更なる財を築き上げることのみが黒井の生き甲斐なのである。
(だが、一体どうすればいい!?)
 自分の悪名は芸能、マスコミ業界に広く伝播してしまった。恐らくはもう、“黒井崇男”の名で成り上がるのは不可能に近い。
 自分ではない“何か”に寄りすがらなくては、再起は望めない。その策を練り続けるものの名案は思い浮かばず、酒に溺れるしかなかった。
『お困りのようですね。私が手を貸して差し上げましょうか?』
 そんな闇に塗れた黒井に、一筋の光明をもたらす声が響き渡った。
「誰だ!? 一体どこから話しかけている!!」
 声の主を探すが、周囲に人影は見当たらない。酒を飲み過ぎて自分は幻聴を聞いているのではと、黒井は困惑する。
『私ならば、貴方の願いを叶えて差し上げることができるでしょう』
「誰なんだ貴様は!? 何故私に力添えしようとする!?」
 まるで菩薩のような優しい声で囁く存在に、黒井は声をあげて問い掛ける。
『そうですね。私は、私は……“仏陀”とでも名乗っておきましょう』



(また、オーディションに……負けちゃった……)
 深夜の個室。漆黒の室内の一角でポワッと発光する、二画面ディスプレイ。カチカチっと、単純作業のようにマウスをクリックし続ける音のみが、辺りに響き渡る。
 虚ろな眼差しで画面を見続ける少女。彼女の名は水谷絵理。876プロに所属するアイドルの一人なのだが、ここ数日はまったく事務所に顔を出さず、半ば引篭もり状態だ。
 元々引っ込み思案だった彼女が、更に内なる殻に閉じ篭る理由。それは、二週連続でオーディションに落選したことにある。
 一度負けた後、中程度のテンションでレッスンと営業に励んだ絵理。そしてある程度レベルアップできたと自信を持って臨んだオーディション。
 しかし、またもや敗退し、絵理のテンションはすっかり低テンションまで落ち切ってしまっていた。
 このままじゃいけないのは、分かっている。でも、今のままじゃもうオーディションに合格することは不可能に等しい。
 オーディションに落ち続ければ、待っているのはアイドル引退。
引退してまた元のネットアイドルに戻るのもいい。でも、やっぱりまだ続けたい。
 相反する想いの葛藤により、絵理の心はズタボロになっていた。
「あっ……。この娘、スゴイ……」
 現実逃避するようにネットサーフィンに興じていた中。ふと、あるサイトに辿り着いた。
それは、ざんげちゃんという、シスターの格好に扮した少女のファンクラブホームページだった。
 興味本位でサイトを眺め続ける絵理。サイトに上げられていた日記や写真を眺めて、彼女が神薙町という小さな街でのアイドル的存在であるものが分かった。
 恐らく彼女は、規模的に見てネットアイドル時代の自分より知名度が高いとは言えない。しかし、自ら街に出て精力的に活動している様は、絵理には眩かった。
 事務所の力を得なくても、ここまでできるんだ。それに、一人の力ではネットの外に出られなかった自分とは違い、直接人と触れられるのは純粋に尊敬できると、絵理は感心した。
「何だろう……? この娘、わたしに似ている……?」
 見た目の雰囲気は髪がちょっと長いくらいで、あとは瓜二つと言っても過言ではない。もちろん、性格は正反対なんだけど。
でも、何故だかこのざんげちゃんという娘の本質は、自分のように引っ込み思案な人間なのではないかと、絵理は何となく思った。
「わたしも、この娘のようになれたらな……」
 どうすればいいかは分からない。だけど、自分も一人のアイドルとして、ざんげちゃんのように積極的な活動ができるアイドルになりたい。絵理はそう願わずにはいられなかった。
「えっ……? 何……?」
 少しでも前に一歩踏み出せる人間になりたい。そんな願いを胸に抱きながら、自己開発やら啓発のワードでググリながら、再びネットサーフィンに勤しむ絵理。
すると、あるサイトが目に付いた。
「TSI……? 主催者は、空野太陽先生……?」
 それはよくある自己啓発のサイトの一つだった。サイトに綴られている、悩める人たちの心を救済しようとする数々の文言。
 普段なら見向きもしないところだが、気が病んでいる絵理にとっては、一筋の光明にさえ見えた。
「えっ……? 仏陀、再誕……?」
 その男は仏陀の生まれ変わりを自称していた。いつのも自分なら馬鹿馬鹿しいと一蹴するところだ。
だけど、空野先生の言葉は優しい言葉は、本当に仏陀の転生者と見間違うほど心に染みるものだった
一度この人に会ってみたい……! 絵理は空野太陽に興味を覚え、近日開かれる講演会に参加してみようと思うのだった。



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