これからの日本

一、公職に就く者の心構え

・始めに

 日本国憲法第十五条にも記載されている通り、公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない。しかし、公職に就く者の汚職や不祥事が絶えない昨今、自分は全体の奉仕者であると自覚し公務に励んでいる公務員はどの程度存在するのだろう。
 公職に就いている者のモラルは当然問われなければならない。官公庁や警察、自衛隊、県庁、市町村役所等の体質にも問題があろう。しかしそれらだけではなく、日本国民の心情や心構えにも問題があるように思えてならない。
 そう思うのは、現在公職に就いている者は皆、公職に就く以前は一般国民だからだ。つまり、組織そのものの体質だけではなく、公職に就こうとする一般国民の心情や心構えに汚職や不祥事の要因があるからこそ、公職者の汚職や不祥事が絶えないのだ。


・公職を望む大衆の心情

 最近、景気の回復の見通しが立たない中、生活の安定を求めて公職を望む者がが多い。私の父なども毎日の如く生活の安定の為公職に就けと私に向かいしきりに叫ぶ。
 国の為でも社会の為でもなく、己や家族の生活の安定の為公職に就く。今公職に就こうと思っている人の大半は生活の安定を望み、それを叶える手段として公務に徹しようとしている。そこには「国の為に尽くす」だとか「社会に貢献する」などという思想は一切無く、ただ「生活の安定」のみが存在する。
 一般企業に就職し、生活の安定を望み労働に励むのは悪いことではない。それが労働力の向上に繋がり、その結果企業だけではなく国の経済も上向きになることがあるからだ。
 しかし、公職において生活の安定を望むのは不徳といって差し支えないだろう。考えてもみてほしい。汚職や不祥事を犯す代議士や官僚の多くは、己の保身の為に汚職に走り不祥事を起こす。己の保身、その思考の根底には少なからず生活の安定という願望が根付いているであろう。
 つまり、生活の安定の為に公職に就きたいと思う願望こそが、汚職や不祥事を引き起こしている要因だということだ。
 ここで私が思うことは、公職者の汚職や不祥事を批判する傍ら公職により生活の安定を得ようと願う人々は、国家に対する憂いから汚職や不祥事を批判しているのではなく、己が公職に就けなかった恨みや嫉妬から批判しているのではないかということである。
 公職者の汚職や不祥事を批判する傍ら、生活の安定の為に公職に就きたいと願うのは矛盾である。公職者の汚職や不祥事を批判するならば、少なくとも己は国や社会の為に公職に就くという論理を展開しなかればならないはずである。この道理的矛盾が解消されない限り、公職者の汚職や不祥事は尽きないだろう。


・道理的矛盾の発生原因

 では、その道理的矛盾はいかようにして発生しているのであろうか。私はこの道理的矛盾の根底には、「公」より「私」を大切にしろという戦後民主主義の思想が根付いていると思う。
 教育、メディア、あらゆるものが「私」を大切にしろと言ってきた。そして世の中には「公」は悪いもの、「私」は良いものというイメージが根付いた。その結果、人々は公職者の汚職や不祥事を目にしても、己が生活の安定の為に公職に就こうと思っていることがその汚職や不祥事に繋がるとの自問自答ができないでいる。自分が大切なあまり国や社会に尽くすという意識が希薄になっているのだろう。


・受験戦争に潜む一つの罪悪

 学歴信仰が崩れつつあるとはいえ、受験戦争の熱は未だ冷めやらないでいる。いい学校に入りいい企業に就く、官庁入りを果たす。そのような思いを秘め日々の受験戦争に身を投じる者は多いだろう。
 しかし、ここで疑問に思うことが一つある。その戦争に身を投じる人々の中で、一体誰だけの者が国や社会に尽くすという信念を持ち受験戦争に身を投じているかということだ。恐らく多くの人々は自分の為だけに受験戦争に身を投じているのではないだろうか。
 国家の中枢を担う公職者の多くは、この受験戦争の勝利者だといって差し支えないだろう。だからこそ私は公職者の汚職や不祥事が絶えないのだと思う。
 考えてもみてほしい。幼少の頃より自分の為だけに勉強を積み重ねて来た人間が、その努力により公職に就いた時、そのような人間が国や社会の為に尽くそうと考えるだろうか。私はそうは思えない。幼少の頃より「私」が大切だと思い成長した人間がその思想により勝利を得た時、今更「公」が大切だという思想は持ち得ないであろう。彼等にとっては「公」の為に「私」があるのではなく、「私」の為に「公」があるのである。


・子を受験戦争に投じさせる親の罪悪

 最近の受験戦争は幼稚園に入る時点から始まっているという話だが、僅か三、四歳の児童が自覚的に受験戦争に望みたいとは考えていないだろう。この時期に受験戦争に身を投じる者は己の意志というより親の意志により受験戦争に身を投じているのだろう。
 単に子供の将来を願うからか、はたまた自分達の老後の安泰のを願うのからか。子を一般企業に就かせたいと思っているのなら、そう願うのは問題ではない。ここで気を付けなくてはならないのは、将来自分達の子を公職に就かせたいと思う親は、決してそのような願いを子供に込めてはならないということだ。
 受験戦争は過酷だ。その過酷さから受験戦争に身を投じる者は少なからず戦線の離脱を思うことがあるだろう。そんな時戦線を離脱させまいと親が放つ激励の常套句が、「お前の為」である。国や社会に貢献出来る人間になれと激励する親は稀有であろう。そのように幼き時から絶えず「お前の為だ」と親に言われて受験に励む者もまた、公職に就いた時国や社会の為に尽くそうとはなかなか思わないだろう。
 故に己の子を公職に就かせたいと思う親は、子供に公に尽くす人間になって欲しいと子供に言い聞かせなければならないだろう。例え本音では子供の将来や自分達の老後の安泰を願っているとしても、建前では子供に公の為に尽くせと言わなければならないだろう。公職者の汚職や不祥事に何かしらの不快感を抱いている親なら尚更だ。


・愛国心教育の必要性

 今まで述べてきたように、昨今の公職者の汚職や不祥事の根底には、「公」より「私」が大事だという思想が根付いている。戦後民主主義は個人の尊重を唱え続けてきたが、その害悪がもたらしたものといっても過言ではない。
 今年、教育基本法に愛国心に関する事項を入れるか否かで物議を醸し出した。否定派の意見には愛国心を盛り込むことで戦前の国家主義が復活するのではないかという懸念や、愛国心は自然に発するもので法によって強制すべきものではないなどの意見がある。
 しかし私の意見としては、やはり愛国心というのは教育には必要だと思う。愛国心とは郷土を愛する心や公共心などの「公」を大切とする思想の総合的なものではないかと私は思う。
 中には「公」などより「私」が大切だという方もいるだろう。しかし考えてほしい。そもそも「私」などというのは「公」というものがなければ存在し得ないようなものだ。例えば、我々が店先でいつでも気軽に食品を購入できるのは、農家や食肉加工業者、運輸業者のお陰だ。農家が米や野菜を製造し、食肉処理業者が豚や牛を食しやすいように加工しなければ、それらを食するのに相当の手間暇をかけなければならない。更にはそれらの食料品を運ぶ運輸業者がいなければ気軽に店先で購入するのも叶わない。
 清掃業者がいるお陰であらゆる施設は快適に活用できるし、警察がいなければ治安は保てない。このように社会は多くの人間によって支えられており、この支えがなければ「私」も存在し得ない。「私」が何より大事だという個人主義という名の利己主義に陥った人間ばかりでは社会は正常に運用されず、そのような社会では「私」の存在も希薄なものになるだろう。
 故に社会を正常に運用する為に、「公」の大切さを教える為に、愛国心教育は必要である。無論、いくら愛国心を教育に盛り込んだ所で、「公」より「私」が大事だと唱える人間がいなくなるわけではない。しかし、「私」より「公」が大事だという人間が増え、そう思う者の多くが公職に就けば、公職者による汚職や不祥事は減り社会はより良い方向へと動いていくだろう。


二、平和国日本

・始めに

 日本国憲法の三大原則の一つに平和主義というものがある。私は平和主義という主義そのものは悪くはない主義だと思う。問題はその主義主張をどのように体現するかである。
 日本国憲法が制定された当初は、平和主義というのを体現するには戦争の否定、武力の放棄が必要だと考えられていた。それが適格に現われているのが一項で国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、行使を国際紛争を解決する手段として永久に放棄するとし、二項で陸海空その他の戦力の不保持と国の交戦権を否定している第九条である。
 あらゆる戦争を否定し武力を放棄することこそが平和主義の根幹だとされ、第九条は神聖にして侵すべからずという感じに改正はおろかその是非を巡って議論することさえ社会は許していなかった。
 第九条も含めて、憲法はその根幹にある基本原則さえ守られるものなら、細かい部分は時代に合わせて改正しても構わないものだろう。


・戦争の否定、武力の放棄による平和主義

 戦争の否定、武力の放棄による平和など絵空事としか言いようがないだろう。それは一つの理念としては正しいだろう。だが、それは世界中からすべての武力を排除でもしない限り不可能であろう。
 何故ならば、まったく武力を持たない国と強大な武力を保有する国が交渉をした時、余程のことがない限り強大な武力を保有する国に有利な形で交渉が運ぶからである。つまり、武力の放棄は他の国が武力を放棄しない限り決して自国を有利な方向へは運ばない。また、世界中でテロが絶えない現状では、世界中全てのテロリスト共から武器を取り上げるか殲滅でもしない限り、国家が武力を放棄するのは危険極まりない。
 仮に世界からすべての武力を排除したとしよう。しかし存在する武力を排除したとしても、あらゆる武器を作る技術は残る。例え存在する武力を排除してもその技術がある限り、武力の完全なる排除は不可能である。完全に武力の元を絶ちたければ、武器を造るあらゆる技術を排除しなければならない。それは技術書の消去などに止まらず、その技術を保有する者までも抹殺しなければならないだろう。本当に武力を完全に排除するなら、数億の犠牲は覚悟しなければならない。そこまで徹底しなければ武力の完全放棄など叶わないだろう。


・自衛戦争を肯定とした平和主義

 以上のように、戦争の否定、武力の放棄による平和主義は不可能といって過言ではない。しかし前述の通り、私は平和主義という主義そのものは悪くはない主義だと思っている。戦争の否定、武力の放棄による平和主義は不可能だが、別の手段で平和主義は体現していくべきものだと思う。
 ではどのようにして平和主義を体現するか。それは自衛を前提とした戦争の肯定、武力の保持である。そもそも平和とは秩序が保たれた状態を指す。つまり平和主義というのは平和という秩序を保つことだ。その平和が何かしらの手段によって奪われた時、最終的には武力を持ってでも平和を取り戻すことこそ平和主義の体現なのだ。
 前項で述べた戦争の否定、武力の放棄による平和主義は、有事の際には座して死を待てと言ってるのに等しい。どのような事態が起ころうとも武力を用いてはならない。そのような思想が戦後少なからず蔓延していたから、北朝鮮による拉致問題が起きたのだろう。もし、自衛を前提とした戦争の肯定、武力の保持を容認する思想に基き法整備が整えられていたなら、北朝鮮による拉致は未然に防げた筈だ。北朝鮮を警戒し、領海侵犯を侵す不審船を断固として撃破することが叶っていれば、拉致問題は起きなかった。拉致被害者は戦争の否定、武力の放棄による平和主義思想の犠牲者でもあるといって過言ではない。戦争の否定、武力の放棄による平和主義は、百害あって一利なしなのである。


・戦争をより起こさないようにする為に

 第九条が改定され、個別的自衛権はおろか集団的自衛権が認められた際は、自衛隊の名称を日本軍としても良いのではないかという意見がある。しかし私は、自衛隊は自衛隊のままで良いと思う。
 何故ならば、武力は自衛の為に存在するものであって、決して侵略や侵攻の為のものではないという思想が、戦争を極力少なくするだろうと思っているからである。私は戦争行為そのものは完全に否定はしないし、武力の保持も容認する。しかし、戦争は極力避けるべきものであると思っている。例えどのような理由があろうと、戦争は少なからず自国民に負担を強いることになる。そのような負担は自衛の為の戦いを除き与えるべきではないからである。
 戦争というものを極力起こさないようにする手段は、世界各国が自衛以外の戦争を認めないことにあると私は思う。どの国も武力を持ち互いに牽制し合いながら秩序を保つ。そしてその秩序を乱すような国家やテロリストは自衛の名の元徹底的に排除し、平和という秩序を保つことに邁進する。楽観的かもしれないが、世界各国がそう認識するようになれば戦争は自ずと少なくなると思う。そして日本はその先達を務めなければならないだろう。


・平和という秩序を保つ為に

 話を国際レベルまで上げてしまったので、もう一度話を国内レベルまで戻そう。最近犯罪の検挙率が下がっていると聞く。その原因としては、犯罪の巧妙化、凶悪化、外国人犯罪の増加、それに警察機構が犯罪を検挙することよりも点数を稼ぐことに重きをおいていることなどが挙げられる。
 私はこの検挙率の低下は、平和主義を唱える日本としては実に遺憾なことであると思う。何も平和という秩序を保つのは自衛を前提とした戦争の肯定、武力の保持だけではない。それはあくまで対外的なものであり、内外的な犯罪を取り締まるり国内の秩序を保つのはやはり警察の仕事だからだ。
 有事法制が整えられることによって自衛隊の立場や行動範囲は改善の方向に向かいつつある。これを機に集団的自衛権の容認や憲法改正にまで持っていくのはまだまだ時間がかかるだろう。しかし、警察の体質の改善や検挙率の向上は、現行法でも対処出来る筈だ。名実共に平和国家日本を体現する為に、まずは国内の秩序の維持に努めるべきであろう。然る後、平和主義という理念は保ちつつ、自衛を前提とした戦争の肯定、武力の保持が容認される国造りに励むべきである。


三、「公」における「私」のありよう

 二章に渡り、これからの日本を築き上げるのに必要なことを「公」について論じた。ここで最後に「私」について論じてみたいと思う。
 私は「公」に重きを置くのは何より大切なことだとは思うが、「公」が大切だからといって「私」が蔑ろにされるべきではないと思う。しかしその「私」もいかに社会に貢献するかの「私」だ。
 過去、現在、未来。この時間軸を「公」と「私」の関係で捉えると、過去とは自分が存在しなかった時、現在とは自分が存在している時、そして未来とは自分が存在し得ない時となろう。当たり前のことだが人はいつか死ぬ、一個人の「私」というものはその時点で失われる。しかし「公」は自分が死んだ後も無限に続き、またこの日本という国の「公」は数千年前から存在した。「公」とは多くの「私」の重なりにより限りなく続いていくものだ。
 仮に自分のみを優先し、国や社会に何ら貢献しなかった人間がいるとしよう。そんな人間は死んだ時点で存在そのものが消滅するに等しい。しかし、国や社会の為に尽くした人間の存在は死んだ後も残る。少なくとも日本という国家が存在する限り、国や社会の為に尽くした人間の生き様は何かしらの形で後世に伝えられるだろう。そしてその生き様を後世まで伝える為に、時には私を犠牲にしてまでも日本という「公」を守らなければならないだろう。
 限りある時を生き抜くのに一番有能な生き方は、国や社会に尽くすことに限る。それは公職に就くことであれ、表現者になるのであれ、技術者になるのであれ、手段は特に構わない。ようは何かしらの形で国や社会の為に尽くせば良いのだ。
 ここで「私」というのは大切になってくる。つまり、自分はどのような手段で社会に貢献するかという所で「私」が活かされてくる。どのような手段で社会に貢献するかは自分で決めるものであって、人に強制されるものではない。自分の意志で社会に貢献する手段を選び国や社会に尽くす。その限りにおいて「私」というものは尊重されるべきなのだと私は思う。
 「公」の為に「私」は存在する。その考えをもってこれからの日本を築き上げていくべきであろう。


帝國立圖書館へ